2022年12月17日
2022年12月13日(火)地域文化学科選択講座「彦根城の見方、調べ方」
11月22日に予定されていた彦根城での校外学習が延期となっておりましたが、本日実施されました。二の丸駐車場に集まり、中井先生から、彦根城の解説を聞きます。
まず、全体を把握するため、文化11年(1814)に描かれた彦根城の城内絵図を示しました。拡大しても見ることができます(「御城内御絵図」拡大)。
表御門橋を渡る前に外から、表御殿の屋根が見えます。彦根藩の政庁であるとともに藩主の居館(きょかん)でもあった建物で、昭和62年(1987)2月に復元され、現在、彦根城博物館になっています。その中で唯一、能舞台だけは現存する江戸時代のオリジナルの建物で、明治以降、博物館ができる前は井伊神社に移され、彦根市内の神社を転々としますが、博物館建設を機に本来の場所に移築復元されました。
明治9年の解体前の表御殿です。
これから、彦根城へ登城ですが、先生は表御門橋の上で立ち止まり、まず、石垣の説明をされました。堀の水面に接しているのが「腰巻石垣」、その上の緑の土塁のさらに上にあるのが「鉢巻石垣」で関東に多い様式です。
表門の内枡形に入りました。ここは表冠木御門と二階表御門櫓の櫓門の2つの門に挟まれた空間です。
先生は一方の二階表御門櫓の櫓門の礎石を示しておられます。
登り石垣: 彦根城には全国的にも珍しい登り石垣が、5か所に築かれています。登り石垣は、豊臣秀吉が晩年に行った朝鮮侵略の際、朝鮮各地で日本軍が築いた「倭城(わじょう)」において顕著に見られるもので、高さ1~2メートルの石垣が山の斜面を登るように築かれています。斜面を移動する敵の動きを阻止する目的で築かれました。国内では彦根城の他には、朝鮮に渡った経験のある大名が築城した洲本城(兵庫県)や松山城(愛媛県)などにしか見ることができません。井伊氏は朝鮮に渡っていませんが、彦根城築城を主導した公儀奉行が朝鮮に渡っており、作らせています。この登り石垣の上には、さらに瓦塀が築かれていたようです。
写真は①二階表御門櫓跡横の登り石垣です。城の南側からの侵入を防ぐため、左(南)側に竪堀が切られています。
②二階大手御門櫓跡横の登り石垣です。
③西の丸三重櫓下の登り石垣です。左(琵琶湖)側に竪堀が切られ、琵琶湖側から来る敵を封鎖しています。登り石垣の先には西の丸三重櫓が見えています。5か所の登り石垣のうち、3か所を見学しました。
入場券購入後、山切岸を左に見ながら坂を上ります。山切岸は彦根城の特徴です。4-9間(8-17m)の高さで山全体に切岸が施されていることから、山の斜面を登るのは不可能で彦根城には、限られた経路からしか登ることができません。
「鐘の丸」と「太鼓丸」の間の大堀切にたどり着きましたが、先生は私たちに「息が切れたか?」と質問され、息が切れたのなら、山城だとおっしゃいました。
大堀切: 彦根城を縄張り、つまり城本来の軍事的な防衛施設として見ると、その発達した様子がわかります。南北に長い尾根を整地して、郭を連ねた連郭式〔れんかくしき〕の平山城で、南から「鐘の丸」「太鼓丸」「本丸」そして「西の丸」が直線的に連なっており、「本丸」にいたる前後に構築された大堀切があります。大堀切は、彦根山の尾根を断ち切るように構築された大きな空堀です。
現在、「鐘の丸」と「太鼓丸」の間の大堀切で、頭上の橋を見上げていますが、「御城内御絵図」を拡大して見ると、橋は屋根の付いた「御廊下橋」であったことがわかります。この橋の辺りを境にして、「太鼓丸」の左右で石垣の積み方が変わっています。手前(表門)側は井伊直継により築城された当時の古いもの(野面積み)、向こう(大手門)側は幕末の積み直しによるもの(落とし積み)です。石垣はこれまで16回崩れて積み直されています。
「鐘の丸」に登り、180°ターンして(させられて)、先ほどの大堀切の方向に向かい、橋を渡って天秤櫓(てんびんやぐら)に入ります。この天秤櫓には、棟瓦の鬼板に長浜城主内藤信正の藤の丸(内藤藤)の家紋の入った紋瓦が遺されており、元和元年(1615)長浜城廃城に伴い移築されたものと伝えられています。彦根城の正面である大手門と表門からの敵に対しては、両者が合流する天秤櫓の外側に大きな堀切で切られています。現在は橋が架かっていますが、この橋を落とせば天秤櫓の高い石垣を登らないと本丸方面へ侵入できません。同様に搦め手(からめて:裏手)からの敵に対しては、西の丸の三重櫓の外に大堀切があって侵入を阻んでいます。
ところで、先生は授業の最後に説明されましたが、「鐘の丸」は、真田丸などでも有名な武田氏の城の作り方の「丸馬出」であるとのことでした。
「太鼓丸」に入りました。天秤櫓の裏側の櫓門です。
天秤櫓内の隠狭間です。隠狭間はここと天守に設けられていますが、特に天守は外観の美しさが大切であることから、こちらも含めて隠狭間とされています。
また、人の高さの横木までは土壁が分厚くしてあり、それより上の壁は薄くなっていることがわかります。その状況は、下の櫓内の天井を示した写真でも確かめることが出来ます。そのようにしているのは、鉄砲からの防御を考慮してのものです。
天秤櫓の天井です。純粋に軍事施設であることから、天井は張られていません。左の「鐘の丸」側の壁が厚くなっています。
続櫓及び太鼓門が「本丸」への最終の門です。「本丸」の内側から撮影していますが、門の向こう側は外枡形となっており、場所によっては石垣を積むだけでなく、天然の岩を削って枡形を作り、また、排水も岩を削って溝を作っています。こちらの内側には縁(廊下)が回っています。通常は石垣の上に櫓が載っているだけで、縁のある例は他にありません。
御殿跡の礎石で、一部二階の御殿が建てられ、彦根城築城当初、藩主はここに住んでおり、この位置から天守は御殿の屋根越しでしか見えませんでした。御殿は幕末まで存在していましたが、大坂との緊張が無くなって後、参勤交代など大坂よりも江戸を見るようになると、江戸側の麓の表門の方に表御殿を建て、移っています。
通常表門から入り天守をめざすと、下写真の天守(南面)を見ます。しかし、こちら側は正面ではありません。天守台は尾張衆により積まれたものです。
下は天守の西面で彦根城は関ケ原合戦後、大阪の豊臣秀頼を仮想敵と想定して建てられた城であることから、西側が大手側であり、長方形の天守であることから、南面よりも大きく豪華に見える正面の姿です。
天守には破風がたくさん用いられて、大きく見えるようにしていますし、花頭窓も通常の城では最上階に設けられますが、最上階の三階に加えて二階にも用いられています。また、三階には外には出ることが出来ませんが、飾りとして高欄付きの「廻縁(まわりえん)」を巡らせるなど外観に重きを置いたつくりになっています。彦根城天守は徳川家康が大津城を目出度い天守であるとして、井伊家に与え移築したものですが、大津城は四重五階であったものを、彦根城では材木だけを用いて三重三階に作り変えられています。
天守内に入りましたが、天秤櫓と同じで、狭間がありますが、隠狭間になっています。
天守内の中心は「身舎(もや)」という部屋となっており、廊下が周りを回る形になっています。中井先生は、天守に登った観光客が「城主はいつも素晴らしい眺めを楽しめていいですね」という感想を述べることがありますが、実態は城主は一生に一度天守に登るかどうかという程度で、彦根城天守に関しては、物置のように歴代の城主の甲冑が納められていたと古文書に記録されているそうです。
「井戸曲輪」外よりの東側石垣の眺望で、「井戸曲輪」と「本丸」の石垣が見えています。
「井戸曲輪」の外よりその門と天守(東面)の方を見ました。ここまで登ってくるのに道は、くの字状に曲げられて、ようやく門に辿り着くと門を通れるのは1人、門を通り抜けても櫓の狭間が真正面です。鉄砲での狙い撃ちを受け命はありません。
私たちは、そのまま下まで下りて黒門まで行きます。黒門の古写真を示しました。今は城内に桜が植えられたり、広葉樹が生えていますが、当時は、松を植えるのが奨励されていました。松は縁起が良いこともありますが、よく燃えて薪にできます。古写真にもたくさんの松が生えているのが見えます。
黒門口から城を出て、ここで昼食のため、休憩しました。
昼食後、佐和口から、再度、彦根城の見学を再開しました。まず、先生は佐和口高麗門のほぞ穴のある礎石を指し示して、茶色く鉄錆の跡があるのはオリジナルの門に巻いてあった鉄板の跡で、その上を車が走って錆を削り取ってゆくのは問題だとおっしゃいました。
見上げると、佐和口多聞櫓があります。写真は表(城外)側の近景と遠景です。天守や天秤櫓と異なり、壁面には窓と狭間が見え、近づくと撃つというように威嚇しているようです。

佐和口多聞櫓の裏(城内)側です。表側とは異なり窓や狭間はなく、たくさんの扉と雁木が設けられていて、いざという時、多くの兵が一気に櫓内に駆け込み、城を守れるという設計になっています。
筆頭家老木俣土佐(10000石)の旧屋敷で、藩主が参勤交代から馬に乗って次に示すいろは松の横を通って戻ると、まずこの屋敷で休憩をとり、表御殿に入ったそうです。逆に、参勤交代に出る時は藩主は船に乗って松原内湖から米原まで行き、そこから中山道を進みました。
ちなみに、井伊直政が関ケ原の傷で亡くなったときに嫡子直継〔なおつぐ〕は若年で、木俣土佐守守勝〔きまたとさのもりもりかつ〕は直政より後事を託されました。そのとき、直政の遺言は佐和山から磯山への城の移築でしたが、その移築計画を徳川家康にはかり、許可を得て慶長9年(1604)7月1日、佐和山城の西方約2キロメートルのここ彦根山において、築城工事を始めた人物です。
馬屋の長屋門です。ここには藩主の馬を常備し、21頭収容できました。天守は「現存12天守」と言われ、12残されているのが有名ですが、この写真の馬屋はここ彦根城にしか残されていない唯一のもので国の重要文化財に指定されています。ちなみに、御殿は4つ残されているのだそうです。
馬屋内部です。
いろは松: 表門橋に向かう中堀の沿道の松並木で、冬であっても緑を保つ松は縁起が良く、参勤交代から帰郷した藩主を佐和口で出迎えるために植えられました。"47"本あったので、その最初の3文字からこの名が付けられました。現在34本(補植12本)残り、当時の面影が偲ばれます。
外堀まで行きました。昭和22年までは水を湛えていましたが、マラリア防止のために埋め立てられました。ここより内側の中堀と外堀の間には中下級武士が住んでいました。また、この間に中堀・武家屋敷・町人屋敷・武家屋敷・外堀というように、町人は武家に挟まれて居住し、さらにその外側の外堀と南側にある芹川の間には足軽が住んで、大坂から攻められたときの備えとしていました。
中堀まで戻り、中堀に面した所に旧鈴木屋敷長屋門があります。1862年に建てられた350石の中級武士の屋敷です。
さらに進んで、京橋口から中堀を渡り、再度城に入ります。解体前の京橋口門古写真です。彦根城は明治になり、時の政府により解体されることが決定しました。しかし、明治天皇が明治11年10月、北陸巡幸を終え、彦根を通られたときに、解体は始まっていましたが、保存するようにと大命を下され、一転して保存されることになりました。一説には、随行した参議大隈重信がその消失を惜しみ、天皇に奉上したとする説。 また一説には、天皇が近江町長沢の福田寺で小休止されたとき、住持攝専(せっせん)夫人で、天皇の従妹(いとこ)にあたるかね子が奉上したとも言われています。
ちなみに、解体が決定した米子城は古物商に売られて、その材木は風呂の薪となったそうです。
京橋口枡形にある鏡石です。ここは上の古写真にあるような高麗門とその奥の櫓門に囲われた空間で、大手側ですので、最初の入城時に通った表門の石垣に比べ、大きく立派な石が2つ用いられています。しかし、大坂夏の陣で豊臣氏が滅び、参勤交代が行われるようになると、実質的な大手が表門側に変わります。
中堀と内堀の間は先の木俣土佐(10000石)を含む重臣の屋敷地です。写真は旧西郷(6000石)屋敷長屋門で、この裏は大津地方裁判所になっています。この屋敷の正面に長野主膳邸がありましたが、現在は彦根東高校(一中)になっています。
大手門橋
大手口高麗門の礎石です。柱がずれないよう、ほぞ穴があります。
写真は大手口から内堀に沿って北に進んだ彦根市立西中学校(藩校弘道館跡)の近くにある水門跡です。米を舟から運び込むための門で、枡形にはなっていません。現在、門の内側は梅林になっていますが、元は幕府からの支給米5万石を保管するための米蔵が17棟建てられていました。
ちなみに、現在においても米蔵が残されている城は、二条城です。
最後に彦根城で見られるめずらしい石垣の積み方のある場所の説明を受けました。通常は攻め手を複数の方向から撃退するため、石垣には隅の部分を設けますが、ここの腰巻石垣は丸く、出積みがありません。その理由は、この石垣の上方に「鐘の丸」があるからです。「鐘の丸」は武田氏の城の作り方(早川幸豊による甲州流)の「丸馬出」であって、それを生かすために下方の石垣の形状が影響を受けたものです。
この後、朝に集合した二の丸駐車場まで戻り、解散となりました。お疲れさまでした。
文責 岡島 敏広

まず、全体を把握するため、文化11年(1814)に描かれた彦根城の城内絵図を示しました。拡大しても見ることができます(「御城内御絵図」拡大)。

表御門橋を渡る前に外から、表御殿の屋根が見えます。彦根藩の政庁であるとともに藩主の居館(きょかん)でもあった建物で、昭和62年(1987)2月に復元され、現在、彦根城博物館になっています。その中で唯一、能舞台だけは現存する江戸時代のオリジナルの建物で、明治以降、博物館ができる前は井伊神社に移され、彦根市内の神社を転々としますが、博物館建設を機に本来の場所に移築復元されました。

明治9年の解体前の表御殿です。

これから、彦根城へ登城ですが、先生は表御門橋の上で立ち止まり、まず、石垣の説明をされました。堀の水面に接しているのが「腰巻石垣」、その上の緑の土塁のさらに上にあるのが「鉢巻石垣」で関東に多い様式です。

表門の内枡形に入りました。ここは表冠木御門と二階表御門櫓の櫓門の2つの門に挟まれた空間です。

先生は一方の二階表御門櫓の櫓門の礎石を示しておられます。

登り石垣: 彦根城には全国的にも珍しい登り石垣が、5か所に築かれています。登り石垣は、豊臣秀吉が晩年に行った朝鮮侵略の際、朝鮮各地で日本軍が築いた「倭城(わじょう)」において顕著に見られるもので、高さ1~2メートルの石垣が山の斜面を登るように築かれています。斜面を移動する敵の動きを阻止する目的で築かれました。国内では彦根城の他には、朝鮮に渡った経験のある大名が築城した洲本城(兵庫県)や松山城(愛媛県)などにしか見ることができません。井伊氏は朝鮮に渡っていませんが、彦根城築城を主導した公儀奉行が朝鮮に渡っており、作らせています。この登り石垣の上には、さらに瓦塀が築かれていたようです。
写真は①二階表御門櫓跡横の登り石垣です。城の南側からの侵入を防ぐため、左(南)側に竪堀が切られています。

②二階大手御門櫓跡横の登り石垣です。

③西の丸三重櫓下の登り石垣です。左(琵琶湖)側に竪堀が切られ、琵琶湖側から来る敵を封鎖しています。登り石垣の先には西の丸三重櫓が見えています。5か所の登り石垣のうち、3か所を見学しました。

入場券購入後、山切岸を左に見ながら坂を上ります。山切岸は彦根城の特徴です。4-9間(8-17m)の高さで山全体に切岸が施されていることから、山の斜面を登るのは不可能で彦根城には、限られた経路からしか登ることができません。

「鐘の丸」と「太鼓丸」の間の大堀切にたどり着きましたが、先生は私たちに「息が切れたか?」と質問され、息が切れたのなら、山城だとおっしゃいました。
大堀切: 彦根城を縄張り、つまり城本来の軍事的な防衛施設として見ると、その発達した様子がわかります。南北に長い尾根を整地して、郭を連ねた連郭式〔れんかくしき〕の平山城で、南から「鐘の丸」「太鼓丸」「本丸」そして「西の丸」が直線的に連なっており、「本丸」にいたる前後に構築された大堀切があります。大堀切は、彦根山の尾根を断ち切るように構築された大きな空堀です。
現在、「鐘の丸」と「太鼓丸」の間の大堀切で、頭上の橋を見上げていますが、「御城内御絵図」を拡大して見ると、橋は屋根の付いた「御廊下橋」であったことがわかります。この橋の辺りを境にして、「太鼓丸」の左右で石垣の積み方が変わっています。手前(表門)側は井伊直継により築城された当時の古いもの(野面積み)、向こう(大手門)側は幕末の積み直しによるもの(落とし積み)です。石垣はこれまで16回崩れて積み直されています。

「鐘の丸」に登り、180°ターンして(させられて)、先ほどの大堀切の方向に向かい、橋を渡って天秤櫓(てんびんやぐら)に入ります。この天秤櫓には、棟瓦の鬼板に長浜城主内藤信正の藤の丸(内藤藤)の家紋の入った紋瓦が遺されており、元和元年(1615)長浜城廃城に伴い移築されたものと伝えられています。彦根城の正面である大手門と表門からの敵に対しては、両者が合流する天秤櫓の外側に大きな堀切で切られています。現在は橋が架かっていますが、この橋を落とせば天秤櫓の高い石垣を登らないと本丸方面へ侵入できません。同様に搦め手(からめて:裏手)からの敵に対しては、西の丸の三重櫓の外に大堀切があって侵入を阻んでいます。
ところで、先生は授業の最後に説明されましたが、「鐘の丸」は、真田丸などでも有名な武田氏の城の作り方の「丸馬出」であるとのことでした。

「太鼓丸」に入りました。天秤櫓の裏側の櫓門です。

天秤櫓内の隠狭間です。隠狭間はここと天守に設けられていますが、特に天守は外観の美しさが大切であることから、こちらも含めて隠狭間とされています。
また、人の高さの横木までは土壁が分厚くしてあり、それより上の壁は薄くなっていることがわかります。その状況は、下の櫓内の天井を示した写真でも確かめることが出来ます。そのようにしているのは、鉄砲からの防御を考慮してのものです。

天秤櫓の天井です。純粋に軍事施設であることから、天井は張られていません。左の「鐘の丸」側の壁が厚くなっています。

続櫓及び太鼓門が「本丸」への最終の門です。「本丸」の内側から撮影していますが、門の向こう側は外枡形となっており、場所によっては石垣を積むだけでなく、天然の岩を削って枡形を作り、また、排水も岩を削って溝を作っています。こちらの内側には縁(廊下)が回っています。通常は石垣の上に櫓が載っているだけで、縁のある例は他にありません。

御殿跡の礎石で、一部二階の御殿が建てられ、彦根城築城当初、藩主はここに住んでおり、この位置から天守は御殿の屋根越しでしか見えませんでした。御殿は幕末まで存在していましたが、大坂との緊張が無くなって後、参勤交代など大坂よりも江戸を見るようになると、江戸側の麓の表門の方に表御殿を建て、移っています。

通常表門から入り天守をめざすと、下写真の天守(南面)を見ます。しかし、こちら側は正面ではありません。天守台は尾張衆により積まれたものです。

下は天守の西面で彦根城は関ケ原合戦後、大阪の豊臣秀頼を仮想敵と想定して建てられた城であることから、西側が大手側であり、長方形の天守であることから、南面よりも大きく豪華に見える正面の姿です。
天守には破風がたくさん用いられて、大きく見えるようにしていますし、花頭窓も通常の城では最上階に設けられますが、最上階の三階に加えて二階にも用いられています。また、三階には外には出ることが出来ませんが、飾りとして高欄付きの「廻縁(まわりえん)」を巡らせるなど外観に重きを置いたつくりになっています。彦根城天守は徳川家康が大津城を目出度い天守であるとして、井伊家に与え移築したものですが、大津城は四重五階であったものを、彦根城では材木だけを用いて三重三階に作り変えられています。

天守内に入りましたが、天秤櫓と同じで、狭間がありますが、隠狭間になっています。

天守内の中心は「身舎(もや)」という部屋となっており、廊下が周りを回る形になっています。中井先生は、天守に登った観光客が「城主はいつも素晴らしい眺めを楽しめていいですね」という感想を述べることがありますが、実態は城主は一生に一度天守に登るかどうかという程度で、彦根城天守に関しては、物置のように歴代の城主の甲冑が納められていたと古文書に記録されているそうです。

「井戸曲輪」外よりの東側石垣の眺望で、「井戸曲輪」と「本丸」の石垣が見えています。

「井戸曲輪」の外よりその門と天守(東面)の方を見ました。ここまで登ってくるのに道は、くの字状に曲げられて、ようやく門に辿り着くと門を通れるのは1人、門を通り抜けても櫓の狭間が真正面です。鉄砲での狙い撃ちを受け命はありません。

私たちは、そのまま下まで下りて黒門まで行きます。黒門の古写真を示しました。今は城内に桜が植えられたり、広葉樹が生えていますが、当時は、松を植えるのが奨励されていました。松は縁起が良いこともありますが、よく燃えて薪にできます。古写真にもたくさんの松が生えているのが見えます。

黒門口から城を出て、ここで昼食のため、休憩しました。
昼食後、佐和口から、再度、彦根城の見学を再開しました。まず、先生は佐和口高麗門のほぞ穴のある礎石を指し示して、茶色く鉄錆の跡があるのはオリジナルの門に巻いてあった鉄板の跡で、その上を車が走って錆を削り取ってゆくのは問題だとおっしゃいました。

見上げると、佐和口多聞櫓があります。写真は表(城外)側の近景と遠景です。天守や天秤櫓と異なり、壁面には窓と狭間が見え、近づくと撃つというように威嚇しているようです。


佐和口多聞櫓の裏(城内)側です。表側とは異なり窓や狭間はなく、たくさんの扉と雁木が設けられていて、いざという時、多くの兵が一気に櫓内に駆け込み、城を守れるという設計になっています。

筆頭家老木俣土佐(10000石)の旧屋敷で、藩主が参勤交代から馬に乗って次に示すいろは松の横を通って戻ると、まずこの屋敷で休憩をとり、表御殿に入ったそうです。逆に、参勤交代に出る時は藩主は船に乗って松原内湖から米原まで行き、そこから中山道を進みました。
ちなみに、井伊直政が関ケ原の傷で亡くなったときに嫡子直継〔なおつぐ〕は若年で、木俣土佐守守勝〔きまたとさのもりもりかつ〕は直政より後事を託されました。そのとき、直政の遺言は佐和山から磯山への城の移築でしたが、その移築計画を徳川家康にはかり、許可を得て慶長9年(1604)7月1日、佐和山城の西方約2キロメートルのここ彦根山において、築城工事を始めた人物です。

馬屋の長屋門です。ここには藩主の馬を常備し、21頭収容できました。天守は「現存12天守」と言われ、12残されているのが有名ですが、この写真の馬屋はここ彦根城にしか残されていない唯一のもので国の重要文化財に指定されています。ちなみに、御殿は4つ残されているのだそうです。

馬屋内部です。

いろは松: 表門橋に向かう中堀の沿道の松並木で、冬であっても緑を保つ松は縁起が良く、参勤交代から帰郷した藩主を佐和口で出迎えるために植えられました。"47"本あったので、その最初の3文字からこの名が付けられました。現在34本(補植12本)残り、当時の面影が偲ばれます。

外堀まで行きました。昭和22年までは水を湛えていましたが、マラリア防止のために埋め立てられました。ここより内側の中堀と外堀の間には中下級武士が住んでいました。また、この間に中堀・武家屋敷・町人屋敷・武家屋敷・外堀というように、町人は武家に挟まれて居住し、さらにその外側の外堀と南側にある芹川の間には足軽が住んで、大坂から攻められたときの備えとしていました。

中堀まで戻り、中堀に面した所に旧鈴木屋敷長屋門があります。1862年に建てられた350石の中級武士の屋敷です。

さらに進んで、京橋口から中堀を渡り、再度城に入ります。解体前の京橋口門古写真です。彦根城は明治になり、時の政府により解体されることが決定しました。しかし、明治天皇が明治11年10月、北陸巡幸を終え、彦根を通られたときに、解体は始まっていましたが、保存するようにと大命を下され、一転して保存されることになりました。一説には、随行した参議大隈重信がその消失を惜しみ、天皇に奉上したとする説。 また一説には、天皇が近江町長沢の福田寺で小休止されたとき、住持攝専(せっせん)夫人で、天皇の従妹(いとこ)にあたるかね子が奉上したとも言われています。
ちなみに、解体が決定した米子城は古物商に売られて、その材木は風呂の薪となったそうです。

京橋口枡形にある鏡石です。ここは上の古写真にあるような高麗門とその奥の櫓門に囲われた空間で、大手側ですので、最初の入城時に通った表門の石垣に比べ、大きく立派な石が2つ用いられています。しかし、大坂夏の陣で豊臣氏が滅び、参勤交代が行われるようになると、実質的な大手が表門側に変わります。

中堀と内堀の間は先の木俣土佐(10000石)を含む重臣の屋敷地です。写真は旧西郷(6000石)屋敷長屋門で、この裏は大津地方裁判所になっています。この屋敷の正面に長野主膳邸がありましたが、現在は彦根東高校(一中)になっています。

大手門橋

大手口高麗門の礎石です。柱がずれないよう、ほぞ穴があります。

写真は大手口から内堀に沿って北に進んだ彦根市立西中学校(藩校弘道館跡)の近くにある水門跡です。米を舟から運び込むための門で、枡形にはなっていません。現在、門の内側は梅林になっていますが、元は幕府からの支給米5万石を保管するための米蔵が17棟建てられていました。
ちなみに、現在においても米蔵が残されている城は、二条城です。

最後に彦根城で見られるめずらしい石垣の積み方のある場所の説明を受けました。通常は攻め手を複数の方向から撃退するため、石垣には隅の部分を設けますが、ここの腰巻石垣は丸く、出積みがありません。その理由は、この石垣の上方に「鐘の丸」があるからです。「鐘の丸」は武田氏の城の作り方(早川幸豊による甲州流)の「丸馬出」であって、それを生かすために下方の石垣の形状が影響を受けたものです。

この後、朝に集合した二の丸駐車場まで戻り、解散となりました。お疲れさまでした。
文責 岡島 敏広
2025年2月15日(土)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第2回「横山城跡」参加
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加
2024年12月10日(火)地域文化学科45期生校外学習 近江の江戸期の城「彦根城の見方、調べ方」
2024年3月16日(土)「近江の城郭~徳川家康と近江の城」姉川古戦場参加
2024年2月18日(日)「近江の城郭~徳川家康と近江の城」永原御殿参加
2023年7月20-22日レイカディア大学大学祭
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加
2024年12月10日(火)地域文化学科45期生校外学習 近江の江戸期の城「彦根城の見方、調べ方」
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2024年2月18日(日)「近江の城郭~徳川家康と近江の城」永原御殿参加
2023年7月20-22日レイカディア大学大学祭
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