2023年11月03日

2023年10月28日(土)第110回例会「佐生日吉城址と伊庭城址」

城郭探訪会第110回例会が、東近江市の佐生日吉城址と伊庭城址を探訪地として、草津校44期園芸学科Aの主催により開催されました。今回は71名(43~45期生)のレイカディア大学城郭探訪会員が参加し、筆者はOBとして参加しました。

本日のコースは下図のように、JR能登川駅を出発し南東に向かい(→ルート)、猪子山(標高268m)の北向岩屋十一面観音を訪ね(→ルート)、尾根を下り(→)佐生日吉城址を訪問、その後、瓜生川に沿って西に向かい(●●●ルート)、JRびわこ線に沿って南下して伊庭御殿(●●●ルート)、さらに、JR線を越えて西に向かって(●●●ルート)、大濱神社、妙金剛寺、伊庭城址等を訪ねます。下地図はGoogleマップを利用して作成しており、クリックすると拡大します。

瓜生川を渡って猪子山公園に入り、北向岩屋十一面観音、佐生日吉城へと出発です。

岩船: 猪子山の岩船神社は、上山天満天神社の境内社で、奈良時代に神が乗ったと伝えられる岩船(舟形の巨岩)を祀っています(写真)。御祭神として「津速霊(ツハヤノムスビ)大神」を祀り、津速霊大神は、728年に高島比良の山から湖上を岩船に乗って渡ってきた「比良大神(白髭明神)」を先導した神だとされています。

猪子山23号墳: 6世紀後半の築造で、直径14mの円墳で、石室が東に開口、全長約9m、玄室は4.4m×2m×2.3m、羨道は4.6m×1.4mの左片袖式で玄室は完存し、床面には石が敷き詰められています。羨道は半壊状態ですが、左袖石を兼ねた羨道の左側壁は自然石に近い巨石を使用しています。古墳群中では最大の玄室です。

猪子山14号墳: 円墳、6世紀後半の築造。西向きに開口する石室は、玄室サイズ3.4m×2.3m×2.7m、羨道は7m×1.3m×1.7mの両袖式です。外観からはわかりませんが、背の高い玄室が完存しています。ここからは鉄釘が出土していることから、木棺が納められていたと考えられます。

北向十一面岩屋観音: JR能登川駅南方の猪子山(268m)山頂の堂の奥に岩屋があり、その中の像高55cmほどの石造の観音が、北向観音と呼ばれています。奈良時代に安置されたものといわれ、古くから土地の人々の信仰を集めました。平安時代には、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が鈴鹿の鬼賊(きぞく)退治のため、岩屋にこもり、この十一面観音菩薩に武運を祈願したともいわれています。

西側の伊庭町の風景: 北向十一面岩屋観音から見える伊庭町の風景です。

東側の蒲生野の風景: 佐生日吉城に向かうため山を下りますが、その途中、東側には蒲生野が広がっています。

佐生日吉城縄張図: 佐生日吉城は、南北に細長く延びる繖(きぬがさ)山(標高 432m)の北尾根に派生する標高158mの佐生山に立地する城です。その前身は、六角氏と浅井氏の抗争下に観音寺城の北の守りとして整備されたと考えられます。平成25・26年度に実施した測量調査によって、東西47m、南北34mの広さの平坦部から構成されていることがわかり、平面形態はほぼ三角形を呈しています。また、城南面には長さ 56m、高さ 1~4.5mの石垣が比較的良好に残存しています。周囲は高さ0.5~1.5m、基底部の幅3~5mの土塁で囲まれています。
しかし、ここから、繖山に通じる尾根筋(縄張図西側)には堀切など特段の防御構造は設けられておらず、城自身は観音寺城の石垣に類似した石垣を持つことから、佐生日吉城は観音寺城の重要な出城であったと考えられています。立地からは繖山の北方を移動する戦国期の諸軍勢の動きをすぐに察知することができたと思われます。また、石垣は城の周囲に築かれておらず、南・西辺のみで、東山道から見える部分にのみ意識して築いたのかもしれません。

佐生日吉城西側(搦手口): 食違い虎口。今回のコースのように、搦め手側から回り込むと息をのむ自然石を積み上げた安土城よりも古い古式の石垣が出迎えてくれます。

佐生日吉城算木積: 南西隅の台形状に張り出した櫓台(幅7.5~14m、奥行9m)では、残存高4.5mの巨石を交互に算木積みされた見事な隅石垣がよく観察できます。しかし、隅角部の稜線は通っておらず、古い段階の石垣であることがわかります。

佐生日吉城南側: 南面石垣の横矢掛り

佐生日吉城東側(大手口): 枡形虎口

「後藤但馬守城址」石碑: 石垣の上に登りますと、城主名を示す石碑があります。石碑の向こう側は土塁により地面が高くなっています。
佐生日吉城の城主は石碑にあるように、後藤但馬守です。近江守護六角氏の家臣で、栗太郡から滋賀郡にかけ勢力のあった進藤氏とともに「佐々木の双藤」と称される重臣でした。しかし、家督相続後日が浅い六角義治(義弼)への後藤賢豊による諫言に反発した義治は、永禄6年(1563)観音寺城内で賢豊と嫡男・又三郎を誅殺します。
この事件に対し、六角家臣団は観音寺城内の屋敷を焼き払い、六角氏を離反する観音寺騒動へと発展しました。この騒動により守護大名六角氏は勢力を大きく減退させ、永禄11年(1568)の織田信長による近江侵攻に抗することができず没落しました。
後藤氏の居館は、観音寺城内と佐生日吉城からかなり離れた東近江市中羽田にあり、守備隊長的立場で城主をつとめていたものと思われます。

伊庭御殿跡: 次に、佐生山を下り、JR線路沿いにある伊庭御殿を訪れました。伊庭御殿は、徳川家光が京都へ上洛する際の休憩所として造営された施設で、宿泊地であった「彦根城」と野洲の「永原御殿」の間で食事を取ったり、休憩する場所として設けられた御殿でした。現在の東近江市能登川町に所在し、地元ではその場所を「御殿地」と呼んでいます。伊庭御殿の存続期間ですが、現存する中井家の指図及び古文書には、寛永11年(1634)の記載があり、この時期に建設されたと考えられます。廃止の時期については、滋賀県で同様の施設である永原御殿(野洲市)は貞享2年(1685)に廃止されている記録があり、伊庭御殿についても同様の時期に廃止されたと考えられます。
伊庭御殿遺跡は、現在は能登川町所在の愛宕神社の御旅所として、また地域のレクレーション広場として利用されています。伊庭御殿の建物跡の敷地を囲むように周辺には高さ約 1m、長さ約 50mにわたって石垣が残っています。
なお、同じような宿泊施設休憩施設として、柏原御殿(米原市)、永原御殿(野洲市)、水口城(甲賀市)があります。

江州伊庭御殿御茶屋御指図: 代々徳川家の大工頭をつとめていた中井家には、「江州伊庭御殿御茶屋御指図」という、伊庭御殿の指図(設計図)が現在も残っており、指図によると、「御殿」「御湯殿」「御料理間」「石垣池」などがあったとされ、伊庭御殿は台所が大きい特徴を持っています。これは、主として食事や休憩のための御茶屋であったことを示しています。伊庭御殿の工事の責任者は、現在の長浜市出身の作事奉行 小堀遠州です。

御茶之水碑: 入口には「御茶之水」という井戸(石碑左に井戸枠が見えます)がありましたが、これは御殿の井戸のようです。

この後、伊庭集落に入り大濱神社、妙金剛寺、伊庭城址及び妙楽寺を訪問しました。

伊庭地区地図(図をクリックすると拡大します)

大濱神社: 東近江市伊庭集落の東の入口、字芝桜に鎮座し、旧伊庭庄地区の産土神です。祭神:須佐之男命。伊庭の坂下し(滋賀県選択無形民俗文化財)で知られます。大濱神社の創建は不詳ですが、古くから伊庭荘八郷(伊庭、能登川、北須田、安楽寺)の産土神として信仰されてきた古社で、大濱神社に残る最古の軒札は文明3年(1471)のものがある事から少なくともこれ以前から鎮座していました。
鎌倉時代に入ると伊庭頼高(近江源氏佐々木氏の一族)が、地主神として崇敬したことで歴代伊庭氏が庇護し社運も隆盛しました。
戦国時代に入ると安土城から北東方向に境内が当る為、安土城の鬼門鎮護の鎮守社として織田信長から崇敬されました。
大濱神社仁王堂(写真左の茅葺の建物)は滋賀県内に残る数少ない中世初期の仏堂建築の遺構として貴重な存在で平成5年(1993)に滋賀県指定有形文化財に指定されています。仁王堂には伊庭祭の「坂下し」で用いられる五社の神輿が収められ、祭の中心的な場です。

伊庭坂下し(さかくだし)祭の説明: 毎年5月4日に行われる祭りで近江の奇祭の一つに数えられます。繖山(きぬがさやま)(432.9m)の山腹にある繖峰三神社(さんぽうさんじんじゃ)から麓にある大鳥居まで、三基の神輿を氏子の若衆が引きずり降ろす神事です。全長約500mにおよぶ坂道は断崖絶壁で、途中何箇所かの難所があります。若衆の勇壮な掛け声とともに三基の神輿が降ろされていきます。見物客もともにハラハラしどうしであり、難所では手に汗握る危険な見せ場となります。

妙金剛寺: もとは金剛寺といい、宝亀2年(771)に伊庭山権現谷に華厳宗の寺院として建立されました。後に天台寺院となり、文明2年(1470)に浄土宗に改宗しました。天正7年(1579)安土城下の淨厳院で催された安土宗論において、浄土宗側から参加した論者の1人が当寺の貞安(ていあん)で、浄土宗が日蓮宗に勝利したことから、織田信長から「妙」の字を賜り、以後妙金剛寺となったとされています。
貞安は宗論の後、安土城下に寺地を賜り、西光寺を創建しています。

伊庭の田舟: 東近江市伊庭町は、室町時代、近江守護六角氏の守護代であった伊庭(いば)氏の本拠地です。伊庭の集落は伊庭内湖に接し、瓜生川が集落内を内湖に向かって貫通しています。また、多くの水路が集落内を縦横に巡っており、伊庭は水郷の里として知られています。
現在、地元では城を中心とする水郷景観を文化的景観として保存するため、精力的な取組が進められています。美しい水郷の風景が広がる伊庭地区は、2018 年国の重要文化的景観に指定されました。繖山を水源とする伊庭川からひかれた水路が集落を縦横に走り、現在も残る石垣が美しい景観を形成しています。水路には鯉が泳ぎ、初夏にはホタルが飛び交う、またとない風情を醸し出す風景です。水路の豊かな水量と清らかな水質が内湖と繋がり、 人々の生活を今も支え、人々の生活が水とともにあったことも実感できます。

ぢんやばし: 幕府旗本・三枝守相が元禄11年(1698)近江国内に7千石を与えられ、領主となり、伊庭城跡に陣屋を構えていました。勤節館(きんせつかん)j前の橋の名は、この陣屋に因むものと思われます。
明治になると陣屋は廃され伊庭小学校が建ちますが、昭和23年(1948)には、小学校跡に勤節館が建てられ現在に至ります。

伊庭城址: 建久年間(1190~1199)、伊庭城は伊庭氏の祖である佐々木行実の四男・高実により築城され、六角氏の重臣の伊庭氏代々の居城とされました。伊庭氏は伊庭内湖や琵琶湖の湖上権を背景とした経済基盤によって権勢を誇った一族で、南北朝時代から守護代として近江支配の実務を担い、やがては主の六角氏を脅かすほどの力を得るようになっていきます。
その背景には、守護の六角氏が通常は京都にいて近江の在地勢力との結びつきが弱かったことと、室町幕府が守護の力を抑えるため、守護代の伊庭氏との結びつきを強めたことがあります。六角氏にとって伊庭氏は、近江支配に欠くことの出来ない存在である一方、自身の存在理由を失わせる危険な存在でもありました。
応仁元年(1467)に始まる応仁の乱によって幕府の力が衰えると、六角氏は近江に対する直接支配を強めていきます。このことは、必然的に近江支配の実権をめぐる伊庭氏との対立を引き起こし、1502年に伊庭貞隆が六角氏に謀反を起こし、敗北。伊庭氏の勢いは急速に衰え、1525年の黒橋の戦い(現近江八幡市西の庄町黒橋)で滅亡しました。その際に伊庭城も廃城になったものと考えられます。六角氏は、これら二度にわたる戦いを経て伊庭氏の排除に成功します。こうして六角氏は、守護としての権力を確立することになります。
伊庭城の正確な位置は不明ですが、「城」「西殿」「東殿」といった小字名が残る地域がその区域と考えられ、現在の伊庭町の中央にある伊庭町の区事務所、城のような謹節館と呼ぶ区の集会所及びその前の広場が伊庭城址推定地とされています。敷地の周囲を取り巻く水路も堀の痕跡ではないかと考えられますが、城の遺構は残っておりません。

謹節館(きんせつかん)

妙楽寺と門内四ケ寺: 毛恵日山妙楽寺は滋賀県東近江市伊庭町に境内を構えている浄土真宗本願寺派の寺院です。妙楽寺の創建は奈良時代、藤原不比等が定慧(藤原不比等の兄)を招いて開いたのが始まりと伝えられています。その後衰退しましたが建武年間(1334~1338)に了念(京都仏光寺の僧)が再興し、元文4年(1739)から西本願寺派に属しました。この境内には、妙楽寺の他、4つの寺院が同居し、末寺では珍しい「お寺の団地」となっています。

絵系図: 妙楽寺の寺宝として「絵系図」(紙本著色絵系図)が残されており、その説明がありました。これは南北朝から室町時代に兆殿司が製作したと伝えられるもので、附として一流相承系図(一巻)と共に、貴重なことから昭和48年(1973)に滋賀県指定有形文化財に指定されています。絵系図は絵の部分の大きさは縦 130cm×横 57.5cm、絵系図序の大きさは縦212cm×横43.5cmです。 この絵系図の内容は、念仏の教えが親鸞聖人から了念にどのように伝わっていったかを説明したものです。いまは絵系図と序に分かれていますが、もともとは一つの巻物であったようです。「お墓がない」この地域では、毎年8月11-12日に系図参りが行われます。

このあと、能登川博物館まで行き、解散となりました。例会実施にご尽力いただきました城郭探訪会44期園芸学科Aの皆様に感謝いたします。 文責 岡島敏広

次回は12月1日に安土城探訪が計画されています。

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Posted by joukaku at 18:07 Comments(0)例会
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