2023年10月30日
2023年10月25, 26日松江城、出雲大社(レイカディア大学卒業旅行2日目)
2023年10月26日、地域文化学科43期生の卒業旅行2日目で出雲大社参拝です。昨日(25日)は下記コースに従い、松江城を訪問しました。その様子はこちらで確認いただけます。
コースは、25日(水): 草津駅西口→蒜山(昼食)→松江城→
一畑電車に乗り、電鉄出雲市駅→ホテル
26日(木): 出雲大社→古代出雲歴史博物館→島根ワイナリー→
道の駅湯の川(昼食)→草津駅西口
10月26日、出雲では「神在月(かみありづき)」である本日の学習は出雲大社についてで、ガイド兼講師は同級生のK.Y.さんです。
旧暦10月10日(今年は新暦11月22日)稲佐(いなさ)の浜には、八百万の神々を迎える御神火か焚かれ、龍蛇神(海蛇)を神々の先導役として神迎えが行われます。
神迎神事
出雲大社への参拝には、まず稲佐の浜で浜の御砂をすくい、神迎えの道を通り大社に詣でるというのが手順であることから、まず、稲佐の浜に向かいました。
御砂をすくうタイミングは、できれば波打ち際で波が打ち寄せてきたときの御砂をすくい、波が引いていくときだと、運気が引けるそうですが、私たちは、海の神様である豊玉彦命(とよたまひこのみこと)が祀られる弁天島の周囲で御砂をすくいました。
稲佐の浜 弁天島(鳥居は沖御前神社)


弁天島手前の岩場でも御砂が取られた跡がありました。
稲佐の浜を弁天島から南に下り、大社常燈を目印にして、神迎の道に入ります。地図ではこの道は「永徳寺坂」と記載されていました。そのまま、東に向かえば、出雲大社勢溜(せいだまり)の大鳥居の前まで行き着けますが、ほんの少しだけ寄り道しました。
立ち寄り先は勢溜の大鳥居の近くの竹野屋旅館です。本日の学習とは関係なくミーハーですが、シンガーソングライターの竹内まりやさんのご実家が近いということで立寄りました。

勢溜(せいだまり)の大鳥居: 二の鳥居で、1968年に建立された先代の鳥居は木製でしたが(下)、2018年の建て替えでは、耐久性などを考え金属製となったそうです。勢溜とは軍勢が集まりひかえている所のことですが、かつては大きな芝居小屋があって、大勢の人が集まる所であったことから、このような名が付けられました。
旧鳥居
下って行く参道: 勢溜の大鳥居を抜けると、通常の神社参道では見られない珍しい下りの参道となっています。
出雲大社の拝礼手順に従い、参道途中の祓社(はらえのやしろ、参道右側)に立ち寄り、大神さまの御前に立つ前に自身の穢れを祓い、今日までの人生に感謝し、先に進みます。
松の参道: 松の馬場(松の参道)と呼ばれる松並木の参道で「日本の名松百選」に選ばれた松並木です。
右側の松の参道を歩く
ムスビの御神像: これは、大国主神が、海の彼方から光が飛んで来るのに遭遇している場面を像にしたものです。
この光が御身に宿る幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)であることに気づき、その御霊に生かされているという自覚を得て、幸魂・奇魂のお蔭を頂き神性を養われ、『ムスビの大神』(神様となった大国主大神の別名)になられたという意味を象徴しています。
銅の鳥居(四の鳥居): 神域の荒垣正門に建っている鳥居です。この碧銅の鳥居は、出雲大社の4つの鳥居の中で、唯一江戸時代寛文6年(1666)6月毛利輝元の孫綱広の寄進になるものです。重要文化財に指定されています。
拝殿: 昭和34年5月に竣功。通常は参拝者の祈祷が行われ、古伝新嘗祭等のお祭の他、さまざまな奉納行事が行われます。注連縄は長さ6.5m・重さ1t
観祭楼及び廻廊: 写真の範囲3カ所から2000~2001年に御柱が発掘(御本殿御柱配置図の3つの黒丸で記された地点)されています。位置はで赤御影石で丸く印された部分に当たります。写真左の石段付近の赤御影石が心御柱(中心)で、宇豆柱と呼ばれる棟持柱(手前)が手前の写真の外で出土し、巫女さんの足元とその右の柱(柱が出土したのはこちら)の印は2つの側柱の位置を示しています。このあとの古代出雲歴史博物館の見学でその出土した宇豆柱の実物を見学します。
御本殿御柱配置図: 3つの黒丸が記された地点で御柱が発掘されています。上写真は配置図の右下部分に当たります。
十九社: 境内の東西2か所にあり、19枚の扉の社であることから「十九社」と名付けれた神様の宿所として知られる末社で、「神在祭(かみありさい)」の期間に扉が開かれます。
御本殿: 現在の御本殿は延享元年(1744)に御造営されており、昭和27年に国宝に指定されました。高さは8丈(24メートル)にも及び、“大社造”と呼ばれる日本最古の神社建築様式を今に伝えています。
素鵞社(そがのやしろ): 「鎌倉時代から江戸時代初期」にかけては出雲大社の祭神であったとされる「素戔嗚尊(スサノヲノミコト)」が祀られています。天照大御神の弟神で、出雲国の肥河上での八岐の大蛇退治で有名です。また大国主大神の親神で、大神に国づくりの大任を授けられました。素鵞社で稲佐の浜ですくった御砂を交換します。
素鵞社の両側と裏側の3か所に御砂が入った木箱が置かれているので、そこに稲佐の浜ですくってきた御砂を納めてから、元からある乾いた御砂をいただきます。
御砂の交換
八雲山: 出雲大社の御神体は八雲山だといわれ、神職すら入ることができない禁足地になっています。八雲山の裾にあたる場所には「磐座(いわくら)」があり、その磐座を背負うような形で素鵞社が鎮座しています。
この磐座は、唯一素鵞社の裏で触れることができますから、今回、触れてきました。出雲大社御本殿にあると言われる御神体については正体不明ですが、1638年に松江藩主松平直政が、御神体を見せろと本殿に無理やり押し入ったというエピソードが「雲陽秘事記」に記載されています。この時は、九穴の鮑があって、それが蛇に化けたそうです。
しかし、八雲山の磐座前(素鵞社)に奉納された「御砂」には、お清めやご加護の力が宿るといわれています。このことから、八雲山が御神体である可能性は高いと思われます。
八雲山で触れることのできる裏手の磐座 御本殿内西向きの御神座


神楽殿: 本来、千家國造家(出雲大社宮司家)の大広間として使用されており、「風調館(ふうちょうかん)」と呼ばれていました。明治に入り、出雲大社教が設立されてからは出雲大社教の神殿としても使用され、御祈祷や結婚式をはじめ様々な祭事行事が執り行われています。ここにある大注連縄は長さ13.6m・重さ5.2tです。
古代出雲歴史博物館: これまで出雲大社の大きさ、特徴、しきたり、歴史などを稲佐の浜から大社内を散策することにより学習し実感してきましたが、その考古学的な意味や解釈をこの博物館で学びました。
宇豆柱(うずばしら): 出土した本物が展示されていました。重要文化財 鎌倉時代・宝治2年(1248) 3本の杉の大木を束ねて1つの柱としており、1本の直径が1.3m、高さ約1.3m、推定重量1.5トンもあります。運搬時に縄を掛けるのに用いたと思われる孔や表面を削った手斧の跡を見ることができます。発掘調査資料
心御柱(しんのみはしら): 心御柱は「神が宿る」とされています。博物館の展示品はレプリカで、本物は、出土時に現地で公開されただけで、保存処理などのため10年以上も公開されないままでした。現在は出雲大社神祜殿(宝物殿)に展示されています。重要文化財
出雲大社并神郷図(鎌倉中期)(千家国造家所蔵): 展示された柱に載っていた本殿の姿(48m)
鎌倉時代本殿推定模型: 考案者による違いが分かるように複数展示されています。
平安時代出雲大社本殿1/10スケール模型(実サイズは高さ96m): 博物館には平安時代を想定した本殿の推定模型も展示されています。出雲大社の現在の本殿は、1744年(延享元年)に造営され、高さ8丈(約24m)の建造物が三度の修繕を加えながら今に伝わっています。しかし、古代には32丈(約96m)、中世には16丈(約48m)だったとの言い伝えが残っています。この模型は、故・福山敏男 京都大学名誉教授が戦前に作成した平安時代の本殿を想定した設計図を元に、1980年代に入って株式会社大林組の復元プロジェクトで部分修正し製作されたものです。1/10スケールでも古代本殿の巨大さが伝わってきます。
南側正面からの平安時代の姿 北側裏から見上げた姿

各時代の出雲大社本殿の比較: 言い伝えを絵にまとめたものです。
鎌倉時代出雲大社本殿を現地に建てたイメージ(後ろに見える現本殿と比較)
最後に、出雲地方の遺跡から出土した銅剣と銅鐸を見学します。それらの数から、大和政権に「国譲り」した(させられた?)出雲政権が持っていた強大な財力・武力を出土品から容易に実感できます。このような政権のぶつかり合いでは、出雲大社本殿建立と引き換えに「国譲り」したと伝えられているとは言え、大和政権による支配を容認するまでの過程は容易ではなかったでしょう。国譲り神話で逃げるタケミナカタをタケミカヅチが信濃の国(現在の長野県)の諏訪湖辺りまで追いかけ、組み伏せてしまったという話が実態を表しているように思われます。
荒神谷遺跡出土銅剣: 全国で出土した銅剣の総数は約300本、対して荒神谷遺跡からは1ヶ所でそれを上回る358本の銅剣と16本の銅矛、6個の銅鐸が出土しています。
加茂岩倉遺跡出土銅鐸: 全国最多39個の銅鐸が出土しています(次は滋賀県野洲の24個)。
ここで、卒業旅行での学習は終了です。
博物館見学後、島根ワイナリーでのワイン試飲と、道の駅湯の川での"のどぐろ"丼の昼食を楽しみ、あとは観光バスのラウンジにて喉を潤しながら、出発地点のJR草津駅に向かいました。
帰宅後、「出雲歴史博物館」から、丁寧なお礼の手紙も届きました。
楽しくかつ知的な卒業旅行を企画いただいた幹事団(H.S.さん、M.T.さん、K.O.さん)及びそれを企画通りに盛り上げていただいた参加者の皆様に感謝いたします。
文責 岡島
コースは、25日(水): 草津駅西口→蒜山(昼食)→松江城→
一畑電車に乗り、電鉄出雲市駅→ホテル
26日(木): 出雲大社→古代出雲歴史博物館→島根ワイナリー→
道の駅湯の川(昼食)→草津駅西口
10月26日、出雲では「神在月(かみありづき)」である本日の学習は出雲大社についてで、ガイド兼講師は同級生のK.Y.さんです。
旧暦10月10日(今年は新暦11月22日)稲佐(いなさ)の浜には、八百万の神々を迎える御神火か焚かれ、龍蛇神(海蛇)を神々の先導役として神迎えが行われます。
神迎神事

出雲大社への参拝には、まず稲佐の浜で浜の御砂をすくい、神迎えの道を通り大社に詣でるというのが手順であることから、まず、稲佐の浜に向かいました。
御砂をすくうタイミングは、できれば波打ち際で波が打ち寄せてきたときの御砂をすくい、波が引いていくときだと、運気が引けるそうですが、私たちは、海の神様である豊玉彦命(とよたまひこのみこと)が祀られる弁天島の周囲で御砂をすくいました。
稲佐の浜 弁天島(鳥居は沖御前神社)


弁天島手前の岩場でも御砂が取られた跡がありました。

稲佐の浜を弁天島から南に下り、大社常燈を目印にして、神迎の道に入ります。地図ではこの道は「永徳寺坂」と記載されていました。そのまま、東に向かえば、出雲大社勢溜(せいだまり)の大鳥居の前まで行き着けますが、ほんの少しだけ寄り道しました。

立ち寄り先は勢溜の大鳥居の近くの竹野屋旅館です。本日の学習とは関係なくミーハーですが、シンガーソングライターの竹内まりやさんのご実家が近いということで立寄りました。

勢溜(せいだまり)の大鳥居: 二の鳥居で、1968年に建立された先代の鳥居は木製でしたが(下)、2018年の建て替えでは、耐久性などを考え金属製となったそうです。勢溜とは軍勢が集まりひかえている所のことですが、かつては大きな芝居小屋があって、大勢の人が集まる所であったことから、このような名が付けられました。


下って行く参道: 勢溜の大鳥居を抜けると、通常の神社参道では見られない珍しい下りの参道となっています。
出雲大社の拝礼手順に従い、参道途中の祓社(はらえのやしろ、参道右側)に立ち寄り、大神さまの御前に立つ前に自身の穢れを祓い、今日までの人生に感謝し、先に進みます。

松の参道: 松の馬場(松の参道)と呼ばれる松並木の参道で「日本の名松百選」に選ばれた松並木です。

右側の松の参道を歩く

ムスビの御神像: これは、大国主神が、海の彼方から光が飛んで来るのに遭遇している場面を像にしたものです。
この光が御身に宿る幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)であることに気づき、その御霊に生かされているという自覚を得て、幸魂・奇魂のお蔭を頂き神性を養われ、『ムスビの大神』(神様となった大国主大神の別名)になられたという意味を象徴しています。

銅の鳥居(四の鳥居): 神域の荒垣正門に建っている鳥居です。この碧銅の鳥居は、出雲大社の4つの鳥居の中で、唯一江戸時代寛文6年(1666)6月毛利輝元の孫綱広の寄進になるものです。重要文化財に指定されています。

拝殿: 昭和34年5月に竣功。通常は参拝者の祈祷が行われ、古伝新嘗祭等のお祭の他、さまざまな奉納行事が行われます。注連縄は長さ6.5m・重さ1t

観祭楼及び廻廊: 写真の範囲3カ所から2000~2001年に御柱が発掘(御本殿御柱配置図の3つの黒丸で記された地点)されています。位置はで赤御影石で丸く印された部分に当たります。写真左の石段付近の赤御影石が心御柱(中心)で、宇豆柱と呼ばれる棟持柱(手前)が手前の写真の外で出土し、巫女さんの足元とその右の柱(柱が出土したのはこちら)の印は2つの側柱の位置を示しています。このあとの古代出雲歴史博物館の見学でその出土した宇豆柱の実物を見学します。

御本殿御柱配置図: 3つの黒丸が記された地点で御柱が発掘されています。上写真は配置図の右下部分に当たります。

十九社: 境内の東西2か所にあり、19枚の扉の社であることから「十九社」と名付けれた神様の宿所として知られる末社で、「神在祭(かみありさい)」の期間に扉が開かれます。

御本殿: 現在の御本殿は延享元年(1744)に御造営されており、昭和27年に国宝に指定されました。高さは8丈(24メートル)にも及び、“大社造”と呼ばれる日本最古の神社建築様式を今に伝えています。

素鵞社(そがのやしろ): 「鎌倉時代から江戸時代初期」にかけては出雲大社の祭神であったとされる「素戔嗚尊(スサノヲノミコト)」が祀られています。天照大御神の弟神で、出雲国の肥河上での八岐の大蛇退治で有名です。また大国主大神の親神で、大神に国づくりの大任を授けられました。素鵞社で稲佐の浜ですくった御砂を交換します。
素鵞社の両側と裏側の3か所に御砂が入った木箱が置かれているので、そこに稲佐の浜ですくってきた御砂を納めてから、元からある乾いた御砂をいただきます。

御砂の交換

八雲山: 出雲大社の御神体は八雲山だといわれ、神職すら入ることができない禁足地になっています。八雲山の裾にあたる場所には「磐座(いわくら)」があり、その磐座を背負うような形で素鵞社が鎮座しています。

この磐座は、唯一素鵞社の裏で触れることができますから、今回、触れてきました。出雲大社御本殿にあると言われる御神体については正体不明ですが、1638年に松江藩主松平直政が、御神体を見せろと本殿に無理やり押し入ったというエピソードが「雲陽秘事記」に記載されています。この時は、九穴の鮑があって、それが蛇に化けたそうです。
しかし、八雲山の磐座前(素鵞社)に奉納された「御砂」には、お清めやご加護の力が宿るといわれています。このことから、八雲山が御神体である可能性は高いと思われます。
八雲山で触れることのできる裏手の磐座 御本殿内西向きの御神座


神楽殿: 本来、千家國造家(出雲大社宮司家)の大広間として使用されており、「風調館(ふうちょうかん)」と呼ばれていました。明治に入り、出雲大社教が設立されてからは出雲大社教の神殿としても使用され、御祈祷や結婚式をはじめ様々な祭事行事が執り行われています。ここにある大注連縄は長さ13.6m・重さ5.2tです。

古代出雲歴史博物館: これまで出雲大社の大きさ、特徴、しきたり、歴史などを稲佐の浜から大社内を散策することにより学習し実感してきましたが、その考古学的な意味や解釈をこの博物館で学びました。

宇豆柱(うずばしら): 出土した本物が展示されていました。重要文化財 鎌倉時代・宝治2年(1248) 3本の杉の大木を束ねて1つの柱としており、1本の直径が1.3m、高さ約1.3m、推定重量1.5トンもあります。運搬時に縄を掛けるのに用いたと思われる孔や表面を削った手斧の跡を見ることができます。発掘調査資料

心御柱(しんのみはしら): 心御柱は「神が宿る」とされています。博物館の展示品はレプリカで、本物は、出土時に現地で公開されただけで、保存処理などのため10年以上も公開されないままでした。現在は出雲大社神祜殿(宝物殿)に展示されています。重要文化財

出雲大社并神郷図(鎌倉中期)(千家国造家所蔵): 展示された柱に載っていた本殿の姿(48m)

鎌倉時代本殿推定模型: 考案者による違いが分かるように複数展示されています。

平安時代出雲大社本殿1/10スケール模型(実サイズは高さ96m): 博物館には平安時代を想定した本殿の推定模型も展示されています。出雲大社の現在の本殿は、1744年(延享元年)に造営され、高さ8丈(約24m)の建造物が三度の修繕を加えながら今に伝わっています。しかし、古代には32丈(約96m)、中世には16丈(約48m)だったとの言い伝えが残っています。この模型は、故・福山敏男 京都大学名誉教授が戦前に作成した平安時代の本殿を想定した設計図を元に、1980年代に入って株式会社大林組の復元プロジェクトで部分修正し製作されたものです。1/10スケールでも古代本殿の巨大さが伝わってきます。
南側正面からの平安時代の姿 北側裏から見上げた姿


各時代の出雲大社本殿の比較: 言い伝えを絵にまとめたものです。

鎌倉時代出雲大社本殿を現地に建てたイメージ(後ろに見える現本殿と比較)

最後に、出雲地方の遺跡から出土した銅剣と銅鐸を見学します。それらの数から、大和政権に「国譲り」した(させられた?)出雲政権が持っていた強大な財力・武力を出土品から容易に実感できます。このような政権のぶつかり合いでは、出雲大社本殿建立と引き換えに「国譲り」したと伝えられているとは言え、大和政権による支配を容認するまでの過程は容易ではなかったでしょう。国譲り神話で逃げるタケミナカタをタケミカヅチが信濃の国(現在の長野県)の諏訪湖辺りまで追いかけ、組み伏せてしまったという話が実態を表しているように思われます。
荒神谷遺跡出土銅剣: 全国で出土した銅剣の総数は約300本、対して荒神谷遺跡からは1ヶ所でそれを上回る358本の銅剣と16本の銅矛、6個の銅鐸が出土しています。

加茂岩倉遺跡出土銅鐸: 全国最多39個の銅鐸が出土しています(次は滋賀県野洲の24個)。

ここで、卒業旅行での学習は終了です。
博物館見学後、島根ワイナリーでのワイン試飲と、道の駅湯の川での"のどぐろ"丼の昼食を楽しみ、あとは観光バスのラウンジにて喉を潤しながら、出発地点のJR草津駅に向かいました。
帰宅後、「出雲歴史博物館」から、丁寧なお礼の手紙も届きました。

楽しくかつ知的な卒業旅行を企画いただいた幹事団(H.S.さん、M.T.さん、K.O.さん)及びそれを企画通りに盛り上げていただいた参加者の皆様に感謝いたします。
文責 岡島
2023年10月29日
2023年10月25, 26日松江城、出雲大社(レイカディア大学卒業旅行1日目)
10月25日は地域文化学科43期生の卒業旅行です。
主な訪問先は、タイトルの通り松江城(1日目)と出雲大社(2日目)で、それぞれで歴史・文化を勉強しようという趣旨です。しかし、前日には参加者がたくさんのメール交信していましたので、なんだか小学生が遠足に行くようなワクワク感がありました。
7:45 JR草津駅に集合し、観光バスに乗車して、まず、本日の昼食場所の蒜山高原へと出発しました。
コースは、25日(水): 草津駅西口→蒜山(昼食)→松江城→
一畑電車に乗り、電鉄出雲市駅→ホテル
26日(木): 出雲大社→古代出雲歴史博物館→島根ワイナリー→
道の駅湯の川(昼食)→草津駅西口
です。
松江城下武家屋敷の左桟瓦(ひだりさんがわら)(下写真): 観光バスが松江城に近づいてきますと、赤瓦(石州瓦)が多く見られる中国地方の中で、松江では黒い屋根瓦を葺いた家がほとんどです。さらに、黒屋根を形づくる瓦は、左桟瓦(古い家屋ですが)を使用している点に特徴があります。なお、松江城など城郭は「本瓦」葺きです。
後に説明します堀尾氏が松江城主の頃にはそもそも瓦は用いられておりませんでした。本瓦にくらべ簡易な桟瓦は1600年代後半に登場します。この桟瓦は葺き易いのがメリットですが、瓦の重ね部分が少なく雨漏りしやすい欠点があります。全国的には瓦職人に取扱いやすい右桟瓦が定着しますが、暴風雨対策として左桟瓦も用いることで補い、ここ島根と高知県では屋根の両側で左と右桟瓦を葺き分けていた形跡があるようです。
しかし、理由はわかりませんが、松江では左桟瓦の方に淘汰され、逆に全国では右桟瓦のみが作られ、左桟瓦は入手できなくなっています。松江歴史館ではその建築のために、左桟瓦を特注してそろえたとのことです。
写真は武家屋敷の左桟瓦が葺かれた屋根です。この後、小泉八雲旧居の前を通ってまもなく城山西駐車場です。
ぐるっと松江 堀川めぐり: 船頭さんから橋の下を通過するときの注意を受けて、駐車場近くのふれあい広場乗船場から、堀川めぐりの出発です。
最初の低い橋(うべや橋)の下を通過するときは、運航路も狭く、
橋下通過時、船頭さんの指示通り、印籠の葵の御紋を見せ、「この紋所が目に入らぬか。」 「皆の者、頭が高い。控えおろう。」 「ははーっ。」という声とともに、テントがリモコン操作で下げられ、土下座しなければなりませんでした。
この印籠はかなり使い込まれていて、葵の御紋が少しかすれていました。
この後、京橋川を通って、米子川の甲部橋、新米子橋、普門院橋でも土下座をさらに3回繰り返し、大手前広場乗船場で下船しました。

大手前駐車場の堀尾吉晴公像: 乗船場から大手口にまできて、松江城の築城者 堀尾吉晴公の像の前に来ました。
堀尾吉晴は、1543年、尾張の国に生まれ、織田信長、豊臣秀吉と徳川家康に仕えました。堀尾吉晴は松江に来る前には、近江の佐和山城と家康が秀吉により江戸に移封された後の浜松城の城主となっています。吉晴と
その子忠氏は、
慶長5年(1600)関ケ原の合戦で家康側に付き、その戦功の恩賞として出雲・隠岐両国24万石を拝領しました。出雲に入国した吉晴・忠氏父子は、従来の出雲の政治的・軍事的中心であった月山富田城(現在の安来市にある山城)にいったん入城し松江藩が成立します。しかし、月山富田城は中世山城であり、物資輸送が陸上輸送のみであることと、城下町が広く取れないことや鉄砲に対する防御が弱いといった理由から、吉晴は新たな拠点づくりを模索しました。
まずは城地とするにあたり、海上輸送もあり物流に便利な場所であること、城下が広く取れることから、松江の地を選びました。
築城場所として目を付けた場所は、父吉晴は荒隈山、息子で当主の忠氏は亀田山(現在の松江城の地)でした。しかし、二人の意見は分かれたまま、忠氏は慶長9年(1604)に28歳の若さで亡くなってしまいます。父の吉晴は、当主であった亡き息子の意思を継ぎ、忠氏が推した亀田山を築城拠点として、城と城下町の建設を推し進めていきました。築城と城下町の造成を開始したのは慶長12年(1607)でした。城は5年目の慶長16年(1611)正月に完成しましたが、堀尾吉晴はその年の6月にこの世を去っています。吉晴が没し城郭の整備は中断したと見られ、仮想敵豊臣秀頼が攻めてくると想定される城の東側には重厚な石垣があるにもかかわらず、西側には石垣が築かれていません。
松江城主の変遷: 堀尾氏は、忠氏の子 忠晴に後継者がおらず改易となり、次に、若狭の小浜より京極忠高が入封します。しかし、京極氏にも1代で後継者がなく、徳川家康の孫にあたる松平直政が松本より入封して、その後、松平氏のまま幕末を迎えます。この松平直政は2日目に訪問する出雲大社でも登場します。乞うご期待。
二ノ丸下ノ段からの太鼓櫓(復元): 明治初期、松江城は政府により廃城と決定されましたが、天守を取り壊すのは惜しいと地元有志の尽力により保存されることになりました。しかし、天守以外は取り壊され、現在の写真のような櫓は古写真に基づいて復元されています。石垣は材料に大海崎、矢田産の石を使い、野面積み、算木積みなどの工法で積まれています。石垣の中には、堀尾家の家紋など色々な印が刻まれた石があります。
松江城天守及び二ノ丸の古写真: 太鼓櫓は写真右上方で、縄張は、リンク先で見ることができます。その他、松江関係の古写真はこちらでご覧いただけます。
本丸からの松江城天守: 天守は高さ約30m で、外観は五層、内部は六階。狭間(矢や銃を撃つ孔)が94 個もある黒づくめの戦闘特化型天守です。
天守古写真: 改修前の天守
天守内部には生活物資の貯蔵庫や籠城時に用いる井戸や、階段は攻め込まれた場合すぐ引き上げられるといった仕掛けがあります。また、古写真からも分かるように修理の時に傷みが激しく取り換えられた木材の中には、月山富田城で使用されていた木材が含まれ、月山富田城の部材が再利用されていることが分かります。
天守地階井戸: 深さ24mで松江に入封する前の堀尾吉晴が築いた浜松城天守内にも同様に石組井戸があることが確認されていることから、松江城は堀尾吉晴の思想に基づき築城されていることが分かります。
鯱: 木彫り銅板張り、向かって左が雄で鱗が荒く、右が雌。高さは2.08mあり(雄)、日本現存の木造のものでは最大です。
ここにあるのは、昭和の修理の際におろされた古い鯱です。
天守は構造的に、2階分の通し柱を用いることで、上階の重さを分散させ、下階へ伝える新たな工法を用いています。
また、包板で木材の1~4面が包まれた柱が多用されています。不良材を補強したり、体裁を整えたりするためのもので、築城に際しての材木不足を補っています。
通し柱 包板と帯鉄(つつみいたとおびてつ)


松江城天守、国宝へ
松江城では2階分を貫く通し柱を計96本各階間に用いて長大な柱を必要としないことから、この後の築城に大きな影響を与えていますが、天守の築城時期が明確でなく重要文化財指定どまりでした。1937年に天守の調査が実施されたとき、天守4階に2枚の祈祷札があり、1枚には「慶長16年」と記されていたと記録がありましたが、2枚の祈祷札は、いつしか行方不明になっていました。松江市はそれを懸賞金をかけて広く全国から情報を求めた結果、棟札類の調査で2012年5月松江神社から発見されました。
松江城天守が完成した年に祈祷に使われたと思われる「慶長十六年正月」と書かれた天台宗大山寺と真言宗千手院「祈祷札」2枚でした。しかし天守外の蔵からの発見であることから、天守のものであることの証明が必要でした。地階の井戸脇の柱に小さな穴が見つかり、この小さな穴と、祈祷札についた釘穴がなんとぴったり一致し、その小さな穴が松江城天守国宝化に決定的な影響を与え、松江城天守は平成27年(2015)に国宝に指定されました。
大山寺祈祷札レプリカ 国宝指定書
千手院祈祷札はこの右側に取付けられています。

重要文化財時(右)と国宝指定時(左)の松江城パンフレット
今は天守前の生垣が取り払われ、芝生へと様子が変わっています。
この後、松江しんじ湖温泉駅16:08発の一畑電車に乗り、明日(26日)の出雲大社参拝のため、電鉄出雲市駅に向かいました。
途中、一畑口駅でスイッチバックして、車両の前後が逆となり、電鉄出雲市駅に到着しました。本日は、ホテルで御馳走を食べた後、二次会となりました。
2023年10月26日(2日目)訪問分は別ブログで報告します。 文責 岡島
主な訪問先は、タイトルの通り松江城(1日目)と出雲大社(2日目)で、それぞれで歴史・文化を勉強しようという趣旨です。しかし、前日には参加者がたくさんのメール交信していましたので、なんだか小学生が遠足に行くようなワクワク感がありました。
7:45 JR草津駅に集合し、観光バスに乗車して、まず、本日の昼食場所の蒜山高原へと出発しました。
コースは、25日(水): 草津駅西口→蒜山(昼食)→松江城→
一畑電車に乗り、電鉄出雲市駅→ホテル
26日(木): 出雲大社→古代出雲歴史博物館→島根ワイナリー→
道の駅湯の川(昼食)→草津駅西口
です。
松江城下武家屋敷の左桟瓦(ひだりさんがわら)(下写真): 観光バスが松江城に近づいてきますと、赤瓦(石州瓦)が多く見られる中国地方の中で、松江では黒い屋根瓦を葺いた家がほとんどです。さらに、黒屋根を形づくる瓦は、左桟瓦(古い家屋ですが)を使用している点に特徴があります。なお、松江城など城郭は「本瓦」葺きです。
後に説明します堀尾氏が松江城主の頃にはそもそも瓦は用いられておりませんでした。本瓦にくらべ簡易な桟瓦は1600年代後半に登場します。この桟瓦は葺き易いのがメリットですが、瓦の重ね部分が少なく雨漏りしやすい欠点があります。全国的には瓦職人に取扱いやすい右桟瓦が定着しますが、暴風雨対策として左桟瓦も用いることで補い、ここ島根と高知県では屋根の両側で左と右桟瓦を葺き分けていた形跡があるようです。
しかし、理由はわかりませんが、松江では左桟瓦の方に淘汰され、逆に全国では右桟瓦のみが作られ、左桟瓦は入手できなくなっています。松江歴史館ではその建築のために、左桟瓦を特注してそろえたとのことです。
写真は武家屋敷の左桟瓦が葺かれた屋根です。この後、小泉八雲旧居の前を通ってまもなく城山西駐車場です。

ぐるっと松江 堀川めぐり: 船頭さんから橋の下を通過するときの注意を受けて、駐車場近くのふれあい広場乗船場から、堀川めぐりの出発です。

最初の低い橋(うべや橋)の下を通過するときは、運航路も狭く、

橋下通過時、船頭さんの指示通り、印籠の葵の御紋を見せ、「この紋所が目に入らぬか。」 「皆の者、頭が高い。控えおろう。」 「ははーっ。」という声とともに、テントがリモコン操作で下げられ、土下座しなければなりませんでした。
この印籠はかなり使い込まれていて、葵の御紋が少しかすれていました。
この後、京橋川を通って、米子川の甲部橋、新米子橋、普門院橋でも土下座をさらに3回繰り返し、大手前広場乗船場で下船しました。


大手前駐車場の堀尾吉晴公像: 乗船場から大手口にまできて、松江城の築城者 堀尾吉晴公の像の前に来ました。

堀尾吉晴は、1543年、尾張の国に生まれ、織田信長、豊臣秀吉と徳川家康に仕えました。堀尾吉晴は松江に来る前には、近江の佐和山城と家康が秀吉により江戸に移封された後の浜松城の城主となっています。吉晴と

その子忠氏は、

慶長5年(1600)関ケ原の合戦で家康側に付き、その戦功の恩賞として出雲・隠岐両国24万石を拝領しました。出雲に入国した吉晴・忠氏父子は、従来の出雲の政治的・軍事的中心であった月山富田城(現在の安来市にある山城)にいったん入城し松江藩が成立します。しかし、月山富田城は中世山城であり、物資輸送が陸上輸送のみであることと、城下町が広く取れないことや鉄砲に対する防御が弱いといった理由から、吉晴は新たな拠点づくりを模索しました。
まずは城地とするにあたり、海上輸送もあり物流に便利な場所であること、城下が広く取れることから、松江の地を選びました。
築城場所として目を付けた場所は、父吉晴は荒隈山、息子で当主の忠氏は亀田山(現在の松江城の地)でした。しかし、二人の意見は分かれたまま、忠氏は慶長9年(1604)に28歳の若さで亡くなってしまいます。父の吉晴は、当主であった亡き息子の意思を継ぎ、忠氏が推した亀田山を築城拠点として、城と城下町の建設を推し進めていきました。築城と城下町の造成を開始したのは慶長12年(1607)でした。城は5年目の慶長16年(1611)正月に完成しましたが、堀尾吉晴はその年の6月にこの世を去っています。吉晴が没し城郭の整備は中断したと見られ、仮想敵豊臣秀頼が攻めてくると想定される城の東側には重厚な石垣があるにもかかわらず、西側には石垣が築かれていません。
松江城主の変遷: 堀尾氏は、忠氏の子 忠晴に後継者がおらず改易となり、次に、若狭の小浜より京極忠高が入封します。しかし、京極氏にも1代で後継者がなく、徳川家康の孫にあたる松平直政が松本より入封して、その後、松平氏のまま幕末を迎えます。この松平直政は2日目に訪問する出雲大社でも登場します。乞うご期待。

二ノ丸下ノ段からの太鼓櫓(復元): 明治初期、松江城は政府により廃城と決定されましたが、天守を取り壊すのは惜しいと地元有志の尽力により保存されることになりました。しかし、天守以外は取り壊され、現在の写真のような櫓は古写真に基づいて復元されています。石垣は材料に大海崎、矢田産の石を使い、野面積み、算木積みなどの工法で積まれています。石垣の中には、堀尾家の家紋など色々な印が刻まれた石があります。

松江城天守及び二ノ丸の古写真: 太鼓櫓は写真右上方で、縄張は、リンク先で見ることができます。その他、松江関係の古写真はこちらでご覧いただけます。

本丸からの松江城天守: 天守は高さ約30m で、外観は五層、内部は六階。狭間(矢や銃を撃つ孔)が94 個もある黒づくめの戦闘特化型天守です。

天守古写真: 改修前の天守

天守内部には生活物資の貯蔵庫や籠城時に用いる井戸や、階段は攻め込まれた場合すぐ引き上げられるといった仕掛けがあります。また、古写真からも分かるように修理の時に傷みが激しく取り換えられた木材の中には、月山富田城で使用されていた木材が含まれ、月山富田城の部材が再利用されていることが分かります。
天守地階井戸: 深さ24mで松江に入封する前の堀尾吉晴が築いた浜松城天守内にも同様に石組井戸があることが確認されていることから、松江城は堀尾吉晴の思想に基づき築城されていることが分かります。

鯱: 木彫り銅板張り、向かって左が雄で鱗が荒く、右が雌。高さは2.08mあり(雄)、日本現存の木造のものでは最大です。
ここにあるのは、昭和の修理の際におろされた古い鯱です。

天守は構造的に、2階分の通し柱を用いることで、上階の重さを分散させ、下階へ伝える新たな工法を用いています。
また、包板で木材の1~4面が包まれた柱が多用されています。不良材を補強したり、体裁を整えたりするためのもので、築城に際しての材木不足を補っています。
通し柱 包板と帯鉄(つつみいたとおびてつ)


松江城天守、国宝へ
松江城では2階分を貫く通し柱を計96本各階間に用いて長大な柱を必要としないことから、この後の築城に大きな影響を与えていますが、天守の築城時期が明確でなく重要文化財指定どまりでした。1937年に天守の調査が実施されたとき、天守4階に2枚の祈祷札があり、1枚には「慶長16年」と記されていたと記録がありましたが、2枚の祈祷札は、いつしか行方不明になっていました。松江市はそれを懸賞金をかけて広く全国から情報を求めた結果、棟札類の調査で2012年5月松江神社から発見されました。
松江城天守が完成した年に祈祷に使われたと思われる「慶長十六年正月」と書かれた天台宗大山寺と真言宗千手院「祈祷札」2枚でした。しかし天守外の蔵からの発見であることから、天守のものであることの証明が必要でした。地階の井戸脇の柱に小さな穴が見つかり、この小さな穴と、祈祷札についた釘穴がなんとぴったり一致し、その小さな穴が松江城天守国宝化に決定的な影響を与え、松江城天守は平成27年(2015)に国宝に指定されました。
大山寺祈祷札レプリカ 国宝指定書
千手院祈祷札はこの右側に取付けられています。


重要文化財時(右)と国宝指定時(左)の松江城パンフレット
今は天守前の生垣が取り払われ、芝生へと様子が変わっています。

この後、松江しんじ湖温泉駅16:08発の一畑電車に乗り、明日(26日)の出雲大社参拝のため、電鉄出雲市駅に向かいました。

途中、一畑口駅でスイッチバックして、車両の前後が逆となり、電鉄出雲市駅に到着しました。本日は、ホテルで御馳走を食べた後、二次会となりました。

2023年10月26日(2日目)訪問分は別ブログで報告します。 文責 岡島