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2025年05月05日

2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

近江国守護佐々木氏のうち、北近江を統治した佐々木京極氏の拠点であった上平寺城跡を訪問しました。
北近江の守護町上平寺一帯は、わが国における戦国大名のあり方がわかる遺跡群として、山頂の上平寺城跡だけでなく、麓の京極氏館跡・庭園跡と南西尾根上の家臣屋敷、山岳寺院弥高寺跡が、平成16 年(2004)2月27日に国の史跡に指定されています。
本日は京極氏館、上平寺城跡及び弥高寺跡を訪問し、その総歩行歩数は15,000歩でした。

上平寺集落には、北近江の戦国大名・京極高清が築いた居館(日常の住まい)である京極氏館や家臣屋敷、城下町の遺跡が残されています。また、ここから約1時間登った所には、 戦いに備えた山城・上平寺城(桐ヶ城)跡や弥高寺跡があります。
京極氏は、仁治2年(1241)に近江守護佐々木信綱の四男氏信が、愛知川以北六郷(伊香・浅井・坂田・犬上・ 愛知・高島)を与えられたのが始まりです。
室町時代に入ると京極導誉が幕府中央で活躍し、本家の佐々木六角氏をしのぐ勢力を持ちます。

          京極導誉
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

当初、近江における京極氏の拠点は柏原館(米原市清滝)でしたが、戦国時代の幕開けとなった応仁文明の乱(1467~77)以降、北近江の戦国大名として歩みはじめ、これに伴って館と家臣屋敷を整備したのが、ここ「京極氏館」です。

永正2年(1505)、家督争いで永く続いていた京極家の内紛を日光寺(米原市日光寺)の講和で収めた京極高清は、柏原館(米原市清滝)を廃し、美濃国との国境近くで山岳寺院上平寺があった坂田郡上平寺(米原市上平寺)に守護所「京極氏館」を構えるとともに、背後の尾根(刈安尾)上に「詰め城」の上平寺城を築城し、館の南側には家臣や町人が住む守護町「上平寺」を造りました。
また、弥高山から派生する別尾根には、中世山岳寺院を京極氏或いは浅井氏が城塞化した「弥高寺」が存在します。
16世紀初頭の約20年間、京極高清の統治のもと、守護所が置かれた上平寺は北近江の政治拠点として平穏に栄えました。しかし、大永3年(1523)、高清を補佐する上坂信光の専横に対する不満から、浅見・浅井・三田村・堀氏などが、クーデターを起こし上平寺城は攻め落とされ、京極氏館は焼失廃絶したと考えられています。 その後、北近江では、小谷城浅井亮政が台頭し、北近江の政治の実権は、浅井氏に移ります。
ちなみに、京極家は高清の孫高次高知兄弟によって再興され、丸亀藩(香川県)など4つの大名家として明治維新を迎えます。

下の『上平寺城絵図』(米原市指定文化財)は、京極氏館がなくなって百年ぐらいあとに描かれたものです(絵図はクリックにより拡大します)。
上平寺城跡/江州伊富貴山之図写として、付近を含む拡大可能な詳しい絵図を、こちらのリンクからもみることができます。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

絵図は伊吹山頂を北に、上平寺城と京極氏館を中心に描き、その南に城下町、西に家臣屋敷、東は河戸川(藤古川)をはさんで長福寺跡、いちばん南には越前街道(北国脇往還)が描かれています。
絵図から、京極氏館には「伊吹大権現(伊吹神社)」と「(上平寺)本堂」、御廟所(高清の墓所)があり、その下に京極氏の「御屋形(京極氏館)」と庭園、「隠岐屋敷」「弾正屋敷」「蔵屋敷」「厩」などがあったことがわかります。また、内堀をはさんで京極氏館の南、現在の上平寺集落には武家屋敷や町屋敷が、さらに外堀があって市や民家がならぶ城下町が広がり、その南端に東国と北陸を結ぶ主要道「越前街道(北国脇往還)」 を取り込んでいることがわかります。

京極氏館跡
館跡付近地図(図はクリックすると拡大します。): 伊吹神社境内全域が御屋形(京極氏館)跡で、庭園を伴った京極氏の住まいや蔵屋敷、隠岐屋敷や弾正屋敷といった家臣団の屋敷が建ちならんでいたようです。地図内の本堂とは「上平寺」本堂で、伊吹神社(伊吹大権現)と神仏習合により同居していました。「上平寺」は、弥高寺などと同様に伊吹山寺のひとつとされ、古くは大谷寺と称しました。当初は山腹(現在の上平寺城跡)にあったものが、山麓(京極氏館)に再建されたものと思われ、集落内には寺院関連の地名が見られます。守護(京極氏)居館整備に伴い信仰を受け、京極氏館廃絶後も高清の菩提寺となりました。
城下町は「諸士屋敷(武家屋敷)」「町屋敷(商工業者)」「市店民屋(市や民家)」に分かれていました。
このように、上平寺は、北近江で最初に築かれた「都市」ということができます。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

ここから実際の訪問です。京極氏史跡見学者用駐車場(伊吹山駐車場)に自家用車を駐車し、内堀跡を渡って京極氏館跡の訪問です。

内堀跡: 伊吹神社石柱前の小水路(写真の水路)が内堀跡で、京極氏館と城下を区画しています。内堀跡の橋を渡り二ノ御門跡を通ると、すぐに小さな上平寺薬師堂が右側にあります。明治の神仏分離令で小さくなって降ろされた上平寺本堂です。
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弾正屋敷(大津屋敷)跡: 薬師堂北(奥)側が弾正屋敷跡で、『改訂坂田郡志』第3巻の巻頭図版には「上平館古図」があり、当該地を「大津屋敷」と記載しています。古図の元本の所在は分かりませんが、伝承地名として「オオツ屋敷」があります。江戸時代、このあたりは畑だったといわれています。
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隠岐屋敷跡: 写真は北側から見た屋敷跡で、左側(東側)に土塁が巡らされていることがわかります。京極氏館跡内では唯一明確な土塁を伴う削平地です。「隠岐」氏は米原市長岡に居館を構えていたとされます。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

蔵屋敷跡: 道に沿って石積があります。右の建物は上平寺地蔵堂です。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

京極氏館跡: 京極高清が北近江支配の拠点として整備した館であり、家臣屋敷や城下町とともに伊吹山の山ろくに展開しています。館には、池や中島、景石を備えた庭園があり、鑑賞だけではなく、遊興や武家の儀礼の場としての役割もありました。また、有事の際に用いる山城(上平寺城)を併せて整備しています。居住空間(館)・儀礼の場(庭)・防衛空間(城)を持つ構造は、御所や管領邸を模しており、公権力の高さを示しています。
館区域での発掘調査では、直径20~50cmの礎石25点が出土し、束柱の礎石が良好に残る縁のまわる建物と、これと並ぶ小規模な建物の2棟があったと推定されています。建物のまわりからは、「ハレの場」 で使用する土師皿(かわらけ)がまとまって出土していることから、庭園を観賞し、宴や儀式をおこなうための建物(会所)だったと考えられます。
大永3 年(1523)に家臣の造反によって廃絶したと考えられています。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

五輪塔(墓石)群: 付近に散在していたものを地主が集めたものと言われています。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

京極氏館内庭園跡: 池泉観賞式の庭園で、背後の河戸谷の四季を借景にして庭園を愛でながら、宴や武家の儀式がおこなわれました。
京極氏館跡の庭園は、類例の少ない戦国時代の武家庭園のなかで、作庭時期が判明する貴重な名園です。しかし、とくに立石の向こうの北側の池周辺の小さな庭石は、戦前に庭作りのために持ち去られているようです。
南の池の平坦地に立つと、それぞれ別々に配置されているように見える景石が一方向を向いて、その石の一番形の良い面が見えるように配置されているとのことです。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

虎石: 2つの池の間にあるこの巨石は、身を反らして吠える虎のように傾いた立石で、組み合わせられた平石とともに、豪壮な景観をかもしだしています。
一説には、この石組は蓬莱思想を示す鶴石や亀石であったともいわれています。こうした館に伴う庭園は、守護ないしは幕府に連なる有力武士の館に通例のものでした。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)


上平寺城跡
滋賀県で最も高い場所(標高約660m)に造られた城跡の1 つです。城が存続していた段階では「かりやす城」、あるいは「かりやす尾城」と呼ばれ、「上平寺城」の名称は、近世の地誌において初めて登場するようです。さらに、「上平寺城」という名についても本来は伊吹山寺に関わる上平寺という寺院名であり、その寺院を利用して築城されたことにより、上平殿と称されたものが、後に上平寺城と呼称されるようになったようです。
京極高清が山麓の館(京極氏館)とあわせ、戦いに備えて「詰めの城」として整備しましたが、後に浅井長政が織田信長と対峙するため、付近の長比城とともに、朝倉氏の造営手法(畝状竪堀)を借りて、城塞化を更に進めたと言われています。したがって、現在見られる遺構は浅井長政時代のものといえます。
しかし、竹中重治(半兵衛)による調略により、城主 堀秀村・樋口直房は織田信長に寝返り、改修も虚しく2城とも戦うことなく開城されています。

上平寺城跡縄張図(図はクリックすると拡大します。): 上平寺城跡は、直線の南北道路の左右に、小規模な郭が展開する構造であることから、中世前期の山岳寺院を改変したと考えられ、さらに、要所が堀切・竪堀・畝状竪堀によって防御された連郭式の城郭で、土塁を屈曲させて虎口の防御を強化しています。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

①三の丸南畝状竪堀の1つ: 縄張図を見るとこの辺りから上平寺城跡の区域となります。この竪堀は上平寺城跡の竪堀群では最大で、上部先端が登ってきた登城道により分断されています。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

②三の丸東側下段廓: 縄張図の小屋敷に当たります。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

③三の丸から二の丸へ至る土橋状土塁と竪堀: 上平寺城は京極高清が山麓に京極氏館や城下町を整備した際、戦いに備えた「詰の城」として築きました。その後、元亀元年(1570)には、浅井長政が織田信長の近江侵攻を阻止するために、朝倉氏の援助をうけて改修されています。おそらく、後者によるものと思われます。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

④二の丸虎口: ここは城跡の見どころのひとつで上平寺城跡中心部への虎口で、ここを通り二の丸南部に入ります。細い土橋で竪堀を渡ると、正面と側面を厚くて高い土塁で囲まれた枡形に入り込み、城内からの攻撃にさらされることになります。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

⑤二の丸内南部から⑥二の丸北部上段への土橋状土塁
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

⑥二の丸北部上段と西側土塁: 二の丸と主郭の間は、この写真の先の東西に走る竪堀により切断されています。『上平寺城絵図』では写真の郭の東部(右側)郭に「二」(=二の丸)の文字が記載されていますが、文献によってはここを主郭の一部として取り扱うものもあります。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

⑦主郭南西竪堀: 二の丸と主郭を分断する竪堀の1つです。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

⑧主郭西側虎口: 主郭には虎口は東西2ヶ所に設けられ、切岸で急になった斜面を登ると写真の西側虎口にたどり着きます。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

⑨主郭南側土塁: 主郭の周囲には低い土塁が巡らされ、さらに郭内部は3段に構築されています。写真は3段のうち最も南側の段です。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

⑩主郭東側虎口: 3段に段築された主郭内部の一番南側の段は東西虎口からの進入路として構築されたようです。また、主郭の周囲の切岸は非常に高く、かつ急傾斜となっています。これは主郭が最も尾根筋に近い位置に配されたことによるものです。
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⑪主郭背後大堀切と土橋: 城の北の尾根筋を防御するため設けられた堀切です。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

ここから上平寺城跡を後にして、弥高寺跡へと移動しました。

弥高寺跡
弥高寺は、伊吹山の尾根に広がる寺院で、、寺伝によると役行者を開基とし、伝説的な山林修行者・三修が草創した伊吹山寺の系譜をひく近江最古の山岳寺院のひとつとされ、中世伊吹修験の中心的寺院でした。太平寺長尾寺観音寺とともに伊吹四ヶ寺に数えられます。寺院の本堂基壇状の高まりを頂点に、直線的に走る南北の独立した道の左右に、小規模な削平地が規則正しく展開するあり方が、中世前期の山寺の形式であるとされます。
応仁の乱以降、京極家の内紛では山城として機能していたようで、明応4年(1495)に京極政経が「弥高寺より進み」、翌年には京極高清が弥高寺に「御陣」を構えていることが記録にみえます。弥高寺は寺院ではありますが、上平寺城と谷を挟んで対面する位置にあり、戦国時代には京極氏が上平寺の館の背後の弥高寺に障子堀状の空堀や土塁、枡形などを整え、城郭に改修しました。15世紀末の記録から、京極氏がしばしば弥高寺に陣を張ったことがわかります。
さらに、浅井氏によっても、城郭にみられるような枡形虎口状の大門や本堂西側の畝状竪堀群と背後の大堀切など城塞化が図られたようで、寺域の縁辺部を厳重に防御しています。
寺院は京極氏の退転後も存続し、天文5年(1536)の記録には47の坊院がありました。しかし、浅井氏の滅亡(1573)後、時を経ずして天正8年(1580)に現在の西山麓に移転しました。

弥高寺跡縄張
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

上平寺城跡から西に見える弥高寺跡: 弥高寺跡は木が切り払われ整備されていますので、遠くから見ても僧坊跡が雛壇状に残されていることがわかります。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

上平寺城跡から弥高寺跡へと西に向って谷を越え移動しました。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

①行者谷入定窟(郭30): 行者谷は弥高寺跡の東にあり、東西約35m、奥行き約5mの平地です。中央に池状遺構、行者の水と呼ばれる湧水と写真の入定窟(高僧が禅定に入る石室)があります。この石窟の扉は閉じられ錠が掛けられていますが、中は切石を組んだ小窟で、人がかがんでようやく入れる大きさです。そこには高下駄を履いた左手に巻物、右手に錫杖を持つ陶製の役行者像が納められています。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

②本堂跡(郭1): 近江最古の山岳寺院のひとつで、中世伊吹修験の中心的寺院でした。郭状遺構は、ほぼ南面し、東西辺および南辺には北から張り出た自然地形を利用し、それに続ける形で土を盛るなどして基底部幅3~4m・高さ1~1.5mの土塁がめぐらされています。
本堂跡の発掘調査では、直径90cm前後の礎石が検出されましたが、 残り具合が悪く間隔も統一されていないため本堂の構造は不明です。基壇側面では2段の石積みが検出され、そこまで縁が張り出した大きな建物であったと考えられています。
本堂跡の西側斜面には畝状竪堀群が設けられています。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

②本堂跡(郭1)から見える風景: 本日は午後天気が悪くなるとの予報で、かすんでいますが、遠くに米原市にあるエレベーターメーカー研究施設の高い塔が見えました。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

③本堂跡(郭1)虎口: 大門跡からここまで直線の参道が伸びています。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

④本堂跡(郭1)背後(北側上段)僧坊跡: 本堂背後には、郭81,82があり、さらに背後が巨大な大堀切で区切られています。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

⑤参道東側僧坊跡(地元でいう東坊寺)本堂跡下段: 郭29に石が見えますが、これは石が組まれた直径9mの池状遺構です。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

⑥参道西側僧坊跡(地元でいう西坊寺)本堂下段(現地説明板の写真を掲載): 僧坊跡郭2の発掘調査では、手前と奥に2棟の建物があり、南北3間×東西6間の庫裏と仏堂を兼ね備えた礎石建物(僧坊)が検出されました。 庫裏では火床(囲炉裏)跡が山岳寺院ではじめて発見されました。 出土遺物は、明かりとりの土師皿や貯蔵用の甕などが多くを占めますが、中国から輸入された青磁の碗や、香炉・花瓶などの仏具、仏像の宝冠や錫杖の石突などもあります。また、古銭や釘も多く見つかっています。その年代は、15~16世紀前半が中心です。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

⑦大門より上には、参道沿いに60を超える僧坊跡が、本堂を頂点にして扇形に展開しています。
大門跡から約120m上に登った参道に沿う土塁(郭39)の発掘調査では、その下部が石垣になっていることがわかりました。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

⑦参道の発掘状況(写真上: 郭39)と大門付近の屈曲した参道と土塁(写真下)
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

⑦上方から撮影した大門跡内側: 上から見ると参道は右に屈曲されています。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

⑦大門跡外(下)側: 弥高寺本堂へ向かう参道を大きく左に屈曲させた大門跡は、 前面に長大な空堀を巡らせ、要所に石垣を用いた巨大な土塁で囲む城郭の枡形虎口状の空間を形成しています。
戦国時代には京極氏と浅井氏により弥高寺が城郭に改修され、設けられたものです。また、大門跡南西側面にも随所に竪堀が設けられており、寺域内部の改変を最低限に抑えながら縁辺部を厳重に防御しています。
これらの城郭関連遺構は京極氏や浅井氏により弥高寺が城として改修されたことを物語るものです。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

この後、大門跡からは本堂跡に向かって戻り、さらに上平寺城跡にこれまで進んだ道を後戻りしました。

伊吹神社
鳥居: 京極氏館跡まで戻り、伊吹神社を見学しました。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

伊吹神社本殿へ: 本殿は鳥居から階段を登り、2段高い場所にありますが、元は写真の狛犬のある段(鳥居から1段上)にあり、神仏分離令の影響で、明治30年か33年に現在地(鳥居から2段上)にまで上がりました。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

本殿: 伊吹神社本殿ですが、現在のこの段には京極氏菩提寺の「上平寺」本堂がありました。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

伊吹神社横にある京極氏一族の墓: 京極氏館跡上段で、現在の伊吹神社南にある京極氏一族の墓と伝えられる五輪塔(墓石)です。
「上平寺城絵図」にも「御廟所」の記載があり、もともとここに京極高清(「環山寺殿」)の墓石がありました。江戸時代に丸亀藩主・京極高豊が、京極氏の菩提寺徳源院に歴代藩主の墓を整備したときに、高清(「環山寺殿」)の墓石は移されました。
残る5基の五輪塔の1つには「浄光院殿芳室宗口大禅尼 永正三年(1506)四月七日」の銘が刻まれており、京極氏ゆかりの女人の墓と伝えられています。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)

伊吹神社最高所石碑: 京極氏一族の墓所よりさらに高い場所に石碑が建てられていますが、説明などはありませんでした。ここには、金毘羅社の石の祠が祀られ、勧請時期は不明ですが、この場所は勧請時に削平されて造られたようです。
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)



以上、上平寺城跡と弥高寺跡の見学を終えて、本日の予定は終了しました。駐車場に戻ると天気予報どおり雨が降り出しましたので、昼食に名物の伊吹そばを食べ、自宅へと帰宅しました。
                            文責 岡島 敏広

参考文献
伊吹町教育委員会編 京極氏の城・まち・寺 サンライズ出版
滋賀県教育委員会編 埋蔵文化財活用ブックレット9 (近江の城郭4) 京極氏遺跡群
国指定史跡京極氏遺跡分布調査報告書

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