2023年02月28日

2023年2月25日(土)第102回例会「大津城跡と膳所城跡」(探訪コース編)

「大津城跡と膳所城跡」を探訪地として、草津校43期園芸学科AとBの合同担当により2月25日(土)第102回例会が開催されました。今回は73名(42期9名、43期26名、44期38名)の会員が参加しました。

本日のコースは以下の通りです。
①大津市役所前⇒②三井寺⇒③三尾神社⇒④琵琶湖疏水⇒
⑤大津城跡の石碑・浜大津港⇒⑥義仲寺⇒⑦和田神社⇒⑧膳所神社⇒
⑨大津市科学館⇒➉膳所城跡公園

①大津市役所前でコースの説明をして出発です。土曜日でしたので、誰もいない中、市役所前でまるで集会のように集合しました。

今回は、上記コースのように名所旧跡を多く巡りましたので、城郭に関連した説明巡った探訪コースに関連した説明に分け、解説します。
本ブログでは例会で巡った探訪コースに関連した説明を行います。

三井寺仁王門: 元は天台宗の古刹常楽寺(湖南市石部町)の門で、 後に豊臣秀吉によって伏見城に移され、慶長6年(1601)に家康によってさらに現在地に移されたものです。

三井寺釈迦堂: 本尊に清凉寺式釈迦如来像をまつります。秀吉による三井寺破却の後、御所清涼殿を移築したものとの伝えられています。

②三井寺堂前灯籠: 天智天皇が大化の改新で蘇我氏一族を誅し、その罪障消滅のため、自らの左薬指(無名指)を切り、この灯籠の台座下に納められたと伝えられています。

三井寺金堂: 現在の金堂は、豊臣秀吉の正室北政所によって再建されたものです。

三井の晩鐘: 近江八景の三井の晩鐘として親しまれている大鐘で、環境庁による「残したい日本の音風景100選」に選定されています。

三井寺閼伽井屋: 内部には井泉が湧き、天智・天武・持統天皇の 産湯に使われたことが三井寺の名前の由来になっています。この井泉が寺の中心であり、金堂は閼伽井屋に寄り添うように建てられています。

左甚五郎作龍: 閼伽井屋正面上部には名匠左甚五郎による龍の彫刻が飾られており、この龍は夜な夜な琵琶湖に出て暴れたことから、目玉に五寸釘が打たれています。

三井寺弁慶の引摺り鐘: 鐘の鋳上がりが悪く、傷や欠損があり、俗に弁慶引摺鐘とよばれています。 「寺門伝記補録」には文永年間にこの鐘が叡山に持ち去られていたとの記事があることから、 これらの損傷は山寺両門の抗争の名残と思われます。

三井寺一切経堂: 一切経を安置するための堂で、 内部には一切経を納める回転式の巨大な八角輪蔵が備えられています。

三井寺三重塔: 慶長2年(1597)豊臣秀吉によって伏見城に移築された大和の比蘇寺の塔を 慶長5年(1600)に徳川家康が三井寺に寄進したものです。

三井寺唐院灌頂堂: 大師堂と四脚門にはさまれて建ち、大師堂の拝殿としての役割を備えています。

三井寺観月舞台: ひときわ目立つ舞台造の建物で、古来より観月の名所として知られてきた優美な建物です。

三井寺観音堂: 貞享3年(1686)に火災にあい、元禄2年に再建された大きな堂です。

三尾神社: 応永33年(1426)に足利将軍が社殿を再興したものと伝えられ、明治9年(1876)に現地へ移されました。兎の神紋が特徴の神社です。

         ④琵琶湖疎水                  ⑤大津城跡碑       大津城の外堀の一部でした。         本丸跡に碑が建てられています。

⑤浜大津昼食後: 寒い日でしたので、大津港展望デッキの屋内で午後のコースの説明を受けて出発です。

⑤石場常夜灯: 宿場町として賑わった大津町の東の外れ、松本村地先の琵琶湖岸に設置された船着場が石場です。 矢橋との間の渡し船で賑わった船着場で、この石場の船着場に弘化 2年(1845)に建立されたのが、 この常夜灯です。

明智左馬之助湖水渡りの石碑: 琵琶湖文化館の前にありました。本能寺の変後、山崎の合戦の時、安土城を守っていた明智光秀の女婿 明智左馬之助(明智秀満)が、光秀敗死の報を受けて坂本城まで向かう時、秀吉軍の先鋒堀秀政の軍を避けるため、湖上をここより唐崎まで馬で渡ったという伝説『川角太閤記』に因んだ石碑です。

義仲寺: 天台宗系寺院で、本尊は聖観音菩薩です。木曽義仲の墓には宝篋印塔が据えられています。また、その右に遺言に従い、松尾芭蕉は葬られております。

        義仲公墓(木曽塚)                芭蕉翁墓

石坐神社(いわいじんじゃ): 創祀年代不詳、御祭神 八大龍王宮 豊玉比古神(海津見神) 彦坐王命、正霊天王宮 天智天皇(天命開別尊) 大友皇子(弘文天皇) 伊賀宅子媛命です。

和田神社: 創祀 白鳳4年、主祭神 高龗神(たかおかみのかみ)。本殿は鎌倉時代の建築で、国の重要文化財に指定されています。表門は現在膳所高校が建つ膳所藩の藩校遵義堂(じゅんぎどう)の門を移築したものです。また、境内にある銀杏の大木は樹齢600~650年と言われ、関ヶ原の戦いで敗れた石田三成が京都へ護送されるときにつながれたという伝説が残っています。

⑧膳所神社: 膳所城本丸近くにあり、武将の崇敬が篤く、社伝には豊臣秀吉や北政所、徳川家康などが神器を奉納したという記録があります。この神社の3つの門はすべて、膳所城からの移築門です。

⑨大津市科学館: 写真は膳所城のジオラマです。館には琵琶湖の成り立ちや生態系、自然を紹介した展示やプラネタリウムがあります。

➉膳所城跡公園: 膳所城は「石鹿城」と呼ばれていました。
その由来は、次のとおりです。第10代藩主本多康慶(やすとし)の時に、中大手門の構造が幕府規定違反との密告がありました。調査の役人に中大手門が見られないよう、瀬田口総門から中大手門へと通じる道に犬の血を塗って、筵を掛けた"大石"を置き、今朝仕留めた"鹿"と説明し、道が穢れているからと言い訳しつつ別の道を通らせました。その結果、お咎めがなかったことから呼ばれるようになったものです。
ここで、探訪コースは終わり、参加者の確認をして解散となりました。


スタートの市役所からここまでで、約17,000歩歩きました。たくさんの参加者による例会でしたが、無事終了できました。本会の準備・運営に協力いただきました皆様、参加いただき会を楽しく盛り上げていただいた皆様に感謝いたします。

次回例会は2023年3月30日(田中城跡と玉泉寺)に予定されています。  文責 岡島

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Posted by joukaku at 16:24 Comments(0)例会

2023年02月27日

2023年2月25日(土)第102回例会「大津城跡と膳所城跡」(城郭編)

「大津城跡と膳所城跡」を探訪地として、草津校43期園芸学科AとBの合同担当により2月25日(土)第102回例会が開催されました。今回は73名(42期9名、43期26名、44期38名)の会員が参加しました。

本日のコースは以下の通りです。
①大津市役所前⇒②三井寺⇒③三尾神社⇒④琵琶湖疏水⇒
⑤大津城跡の石碑・浜大津港⇒⑥義仲寺⇒⑦和田神社⇒⑧膳所神社⇒
⑨大津市科学館⇒➉膳所城跡公園

①大津市役所前でコースの説明をして出発です。

今回は、上記コースのように名所旧跡を多く巡りましたので、城郭に関連した説明巡った探訪コースに関連した説明に分け、解説します。
本ブログでは城郭に関連した説明を行います。
大津城については、本ブログの別の報告にも解説されています。

大津城遺構説明
大津城は豊臣秀吉により坂本城が廃城とされた後、城と城下町を移して建設されました。浅野長政に命じて新たに築城され、

その後、城主は増田長盛、新庄直頼と代わり、文禄4年(1595)に京極高次が城主となり6万石を与えられました。
城の規模や概念図については、明治35年(1902)に発表された『大津籠城』の中の「大津城廓図」が初めてで、昭和4年に発刊された「大津城攻防戦闘要図」、および昭和14年に郷土史家田中宗太郎氏が作成した「大津城考証図」などから、、昭和55年(1980)発刊『新修大津市史』第三巻の「大津城復元図」において大津城の姿が復元されました。下図のように、背後を琵琶湖として東は大津駅周辺、西は琵琶湖疎水、南は京町通りまでが外堀であったと推定されています。

大津城天守(彦根城天守の前身建物)の推定図/昭和35年滋賀県調査より: 彦根城天守が大津城を移築したものと伝えられていることから、彦根城天守の解体修理時に調査した結果に基づき、前身の建物(大津城)を推定し、描かれた図です。天守は望楼型の4重5階であったと考えられています。

大津城本丸北端の石垣(上写真)と三の丸の石垣(下写真): 大津城の石垣等は膳所に移されていることから現存しませんが、浜大津が埋め立てられる前には本丸や三の丸の石垣が一部残っていたようです。
田中宗太郎著『大津城の研究』より

②三井寺観音堂の高台: 関ヶ原の戦いの時、関ヶ原に向かう西軍の毛利元康立花宗茂らは京極高次の立て籠もる大津城にここから大砲で攻撃しました

ビルが建ちわかりにくいですが、写真中央に琵琶湖ホテルの緑色のビルの先がわずかに見えています。大津城のあったその辺りめがけて大砲を撃ちました。

逆に、浜大津駅の方から、大砲が放たれた長等山を見た風景です。当時はビルはありませんが、現在でも山の中腹に大砲の放たれた場所が見えます。

⑤浜大津駅前の「大津城跡」の碑です。当時は京阪線のある場所辺りまで、琵琶湖が迫っていましたので、この碑の位置は昔は湖上であって、本丸の北端辺りで、地図の「現在地」と記載された地点に相当します。


④【大津城外堀】 写真は琵琶湖疎水を琵琶湖(北側)に向かって眺めたところです。この右(東)側には、下の写真のように、水はありませんが百々川が残っております。これらの両者を含めたものが、「大津城復元図」に示されるように大津城の外堀西側に当たります。
また、この琵琶湖疎水の石垣は膳所城廃城後の石垣が利用されたといわれています。

④琵琶湖疎水東側の百々川(南に向かって撮影。右の道路の向こう側に琵琶湖疎水が有ります)

【大津城中堀】 江戸時代に大橋堀・川口関など湖岸の荷揚場として利用されており、その堀跡は昭和期に至るまで残されていました。
中堀西側・・・『川口関』に該当(現在の川口公園あたり) 。
中堀東側・・・『扇屋関』に該当(NTT大津営業所あたり)。

川口関

大津城廃城後の寛保2年(1742)の絵図ですが、大津の町は下図のような商業都市の姿に生まれ変わりました(この図は上が南で、クリックすると拡大します)。

大津代官所表門: 大津城廃城後、大津城本丸跡地は上の絵図のように、「御蔵」と「御代官(代官所)」になりました。
写真は現在の長等小学校の前身、大津西尋常小学校の表門で、元大津代官所の門であったと伝えられています。現在は存在していません。

石場の常夜燈: 幕末の弘化2年(1845)に建てられたもので、石場津と対岸の矢橋(やばせ)間の渡し船の目印とされました。昔は大津警察署裏にありました(その頃の写真はこちら)ので、そのあたりまで湖岸が迫っていたことがわかります。


膳所城遺構説明
慶長5年(1600)の京極高次の大津籠城戦の翌年に大津城は解体され、天守は彦根城へ、その他の部材は膳所に移され膳所城の築城が始まりました。築城を命じた徳川家康は、ここに三河以来の譜代大名戸田一西(かずあき)を配して、大津には商業都市としての役割を残し、隣接するここ膳所には政治的役割を持たせました。

下図は膳所城築城当初の縄張図

膳所城の湖上(北側)から見た姿が近江名所図会に描かれています。(図のクリックにより拡大)

⑨膳所城のジオラマです。近江名所図会とほぼ同じ北東方向から撮影したもので、上の図会と比較できます。

膳所城下町北総門跡碑: ここに総門があり、膳所城下町の北の入り口でしたが、その門は残されていません。
膳所城下町は、城が水城であるため、堀の外側の東海道筋に面して町家を配し、その外側に一般の侍屋敷が配置されていました。さらに、城の防御に加え、城下町を大きく錯覚させるように、街道筋の屈曲を多くした(下写真)ことから、街並みが長く「膳所の褌(ふんどし)町」といわれる所以となっています。

⑦和田神社 藩校遵義堂(じゅんぎどう)門表側: この先にある膳所神社のすぐ近くに膳所高校がありますが、膳所藩の藩校遵義堂の跡に建てられています。そちらにあった門が移築されています。

⑦和田神社 藩校遵義堂門裏側: 高麗門

響忍寺(こうにんじ) 表門 膳所藩家老屋敷長屋門表側: 響忍寺は膳所城周辺にありましたが、火災により焼失。宝暦元年(1751)に膳所藩家老・村松八郎右衛門屋敷跡に再建された寺です。表門と中門には屋敷門が使われていますとの情報を得ていましたが、

響忍寺表門裏側: 表門は健在でしたが、中門は取り壊されてなくなっていました。

膳所城中大手門跡碑: ここは丸の内町2番街区の南西角付近で、実際の中大手門の位置は大手門通りを膳所城跡公園に向って少し下ったあたりでした。中大手門はその後どうなったのか、まったくわかりませんが立派な門であったことが、膳所城郭明細図に描かれています。

⑧膳所神社表門表側: この表門は、明治3年(1870)に膳所城が廃城となった後、膳所城の二の丸と本丸の間にあった城門を移築したと伝わっており、明暦元年(1655)の銘札が発見されています。
門は、脇戸付き薬医門、切妻造、本瓦葺で、両開きの大扉の左側に脇柱を建て、方開きの潜戸(くぐりど)となっています。木柱の心材には、それ以前の仕口がみられることから、大津城の材の転用が考えられています。屋根瓦には、膳所城主本多氏の立葵(たちあおい)紋が見られます。銘札により建築年次がはっきりしているため、大正13年(1924)4月に国の重要文化財に指定されました。

⑧膳所神社表門裏側: 薬医門

⑧膳所神社北門表側: 本丸土橋門です。この門の最大の特徴は、太く曲がった柱を用いていることで、木材の調達や加工よりも、戦に備えていち早く築城することを目的にしたと思われます。

⑧膳所神社北門裏側

大養寺 膳所藩家老屋敷長屋門: 今回のコースから少し外れ、膳所神社から東海道を少し南に行くと膳所の六門(長屋門)の1つが残されています(ここと響忍寺、敬願寺の門が現存)。寺は文応元年(1260)に開基された浄土真宗仏光寺の末寺です。

➉膳所城跡公園模擬城門表側: 本丸跡は、膳所城跡公園として整備されて、その入り口に模擬城門(高麗門)が建てられています。模擬城門とは呼ばれていますが、これは膳所城下町南端の勢多口総門を正確に復元したもので、東海道を往来する旅人が城下町を出入りする際に通った門です。この門の本物は膳所城廃城後、建部大社に移築されていましたが、現在は個人に譲られて大阪府泉大津市に現存しています。

➉膳所城跡公園模擬城門裏側: 高麗門

➉膳所城跡公園(本丸跡)の膳所城址碑と天守跡碑: 膳所城は廃城となって、民間に売却されましたが、その売却額は1,200両で、現在価値の1億円に満たない安価な額でした。
城門などは移築されて現存するものが多いですが、天守は行方不明のままです。

二の丸跡にある膳所浄水場の平櫓風「浄水施設」: 周囲の景観に配慮した浄水施設が二の丸跡に建てられています。

旧膳所城二重角櫓: 今回は訪問の機会がありませんでしたが、大津市秋葉台に二重角櫓が芭蕉会館として移築されています。芭蕉会館となる前は、写真のように、料亭坂本屋に買い取られて、飛竜の間として利用されていました。

また、栗東市岡349番地に長徳寺(栗東市林)に移築されていた大手門の枡形の一の門(高麗門)と伝わる門があります。長徳寺では山門の建替えに伴いこちらに移築されています。立ち葵紋の瓦があり、寛文2年(1663)の地震直後に建築されたもと思われます。三葉葵紋の瓦も6枚含まれています。

新宮神社(草津市野路6丁目)神門: さらに、新宮神社には境内の目立たない所に設置されていますが、この小さな門は膳所城の二の丸水門が廃城後に移築されたものと伝わっています。

表側

裏側

今回のコースにない膳所神社より南にある神社に移築された膳所城の門については、本ブログ内の「膳所城 城下町、膳所五社巡り」を参照ください。

本会の準備・運営に協力いただきました皆様、参加いただき会を楽しく盛り上げていただいた皆様に感謝いたします。
次回例会は2023年3月30日(田中城跡と玉泉寺)に予定されています。   文責 岡島 敏広


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Posted by joukaku at 13:25 Comments(0)例会

2023年02月17日

2023年2月14日(火)膳所城 城下町、膳所五社巡り

本日は、クラスで膳所城下町と膳所五社(石坐神社と和田神社は別途)を巡ります。
集合場所の①膳所公民館でガイドのTさんからコースの説明を聞き、出発です。

コースは
①膳所公民館(膳所支所)➡②膳所神社➡③土塀のある街(坊主町)➡④寒川辰清邸跡➡⑤篠津(しのづ)神社➡⑥本多神社・丹保の宮➡⑦粟津神社➡⑧若宮八幡神社➡⑨勢田口総門跡➡➉旧東海道「粟津の晴嵐」➡⑪今井兼平墓碑
です。

このブログでは、城郭探訪の立場から巡った箇所における膳所城遺構につき、まとめて説明した後、今回の訪問箇所につき、コースに従って説明します。

膳所城は大津城に代わって京都の東の守りを固める目的で築かれ、徳川家康の命により、天下普請によって築かれた城です。 築城の名手と謳われた藤堂高虎に最初につくらせた城で、日本三大湖城のひとつに数えられます。 慶長5年(1600)の京極高次の大津籠城戦の翌年に大津城は解体され、天守は彦根城へ、その他の部材は膳所に移され膳所城の築城が始まりました。
築城を命じた徳川家康は、ここに三河以来の譜代大名戸田一西(かずあき)

本多氏など譜代大名を城主として配置して、ここ膳所には政治的役割を持たせました。明治3年(1870)に廃城となっています。また、元の大津には商業都市としての役割を残しました。

下図は寛文2年(1662)に描かれた「膳所城寛文地震修復願ヶ所絵図」で当初の姿です。正保年間の「近江国膳所城絵図」もご覧ください。

寛文2年(1662)6月の大地震の後の修復計画である「膳所城寛文地震修復願ヶ所絵図」も下に示します。 江戸中期~末期の「江州膳所城図」でも本丸と二の丸の間が埋め立てられて、改めて1つの本丸、三の丸が二の丸に変更となっています。

膳所城の湖上(北側)から見た姿が近江名所図会に描かれています。(図のクリックにより拡大)

歌川広重の浮世絵にも膳所城が描かれており、粟津(南側)から見た姿です。

ここから、膳所五社巡りです。
①膳所公民館から出発しました。ここからは膳所城跡公園の入口となっている模擬城門が見えます。これは平成元年(1989)に再建されたものですが、後に訪問する勢多口総門として建てられていた門を正確に復元した門です。

②膳所神社表門表側: この表門は、明治3年(1870)に膳所城が廃城となった後、膳所城の二の丸と本丸の間にあった城門を移築したと伝わっており、明暦元年(1655)の銘札が発見されています。
門は、脇戸付き薬医門、切妻造、本瓦葺で、両開きの大扉の左側に脇柱を建て、方開きの潜戸(くぐりど)となっています。木柱の心材には、それ以前の仕口がみられることから、大津城の材の転用が考えられています。すなわち、大津城から膳所城に移築され、さらには、ここ膳所神社に移築された門のようです。屋根瓦には、膳所城主本多氏の立葵(たちあおい)紋が見られます。大正13年(1924)4月に国の重要文化財に指定されました。

②膳所神社表門裏側: 薬医門

②膳所神社南門表側: 膳所神社にある膳所城の水門で、城から琵琶湖に出るための門の移築門です。写真は撮影しませんでしたが、膳所神社にはもう1つ、移築された膳所城本丸土橋門が北門に用いられ、1つの神社に3つの移築門が存在します。

②膳所神社南門裏側: 高麗門

二の丸の水門を撮影した写真です。

⑤篠津(しのづ)神社表門表側: 膳所城の北大手門として建てられたもので、膳所城取り壊しの後、明治5年(1872)に篠津神社で再建されたことが棟札からわかっています。門は高麗門形式で、屋根は本瓦葺となっており、膳所城主本多氏の立葵紋が見られます。扉はうち開きで、竪格子、腰部横板張りとなり、脇門を付けています。

⑤篠津神社表門裏側: 高麗門という形式は、背面に特色があり、正面の主要部から、両方へ袖のように直角に屋根が出ているものをいいます。
この形式は城門に多く用いられており、この門は桃山時代の城門の1つと考えられます。大正13年(1924)4月に国の重要文化財に指定されました。

⑧若宮八幡神社表門表側: 膳所城が廃城となった後、本丸の犬走門を移築したものと伝えられています。門は脇戸付高麗門、切妻造、本瓦葺となっており、軒丸瓦には、膳所城主本多氏の立葵紋が見られます。建築年代は、膳所城築城当初の慶長期に建てられた城門を寛文2年(1662)の大地震の後、冠木(かぶき)や柱の古材を用いて現在の姿に再建されたと考えられます。令和元年(2019)の解体修理の際、類似の膳所城門を参考にして当初の形式に復原されました。昭和53年(1978)2月に大津市の文化財に指定されました。

⑧若宮八幡神社表門裏側: 高麗門


ここからは今回巡ったコースに基づいた説明となります。→関連資料
膳所神社: 主祭神は豊受比売命で、天智天皇が大津宮遷都に際し、此の地を御厨地と定めたとされています。膳所城築城に際して現在地に遷座して、膳所大明神と称していました。
膳所神社のすぐ北に膳所高校がありますが、膳所藩の藩校遵義堂(じゅんぎどう)の跡に建てられています。

途中、立葵紋の軒丸瓦や鬼瓦を保管されていて、親切に見せてくださるお家がありましたので、そこで撮影した写真を示します。

③坊主町土塀: 膳所神社南門から出て、さらに南に下ると「坊主町」を通ります。ここには、昔の面影を残す土塀がたくさん残されています。

④寒川辰清邸址: 鷹匠町に入りますと、寒川辰清(さむかわとききよ)邸址の碑がありました。近江国の自然や歴史等についてまとめた『近江輿地志略』を編纂した人で、近江の歴史の記述には多く引用されています。

篠津神社: 江戸時代には牛頭天王社として祀られていました。主祭神は素盞嗚命で創建年代は不詳です。

本多神社: 明治16年(1883)に旧膳所藩士など有志により建立されたもので、本多家四君を祀っています。境内地は膳所藩主の別邸として江戸初期に営まれた瓦ケ浜御殿の跡にあたり、円墳2基が残っています。

浜御殿址の碑: ここには藩主の隠居所が建ち、琵琶湖の水が引かれた池がありました。その池跡の一部は現在も残っており、少しずつですが再建されつつあります。

粟津神社: 御祭神は大国主神です。この神社は歴史が古いのですが、氏子がいないことから、小さくなってしまっています。現在はこのブログで紹介する他の神社により支えられています。

若宮八幡神社: 特別の村を意味する別保地域の氏神です。主祭神は八幡神・応神天皇の御子神である仁徳天皇(大鷦鷯尊)で、白鳳4年の創始と伝わる古社です。この写真には写っていませんが、境内ある新羅神社は足利尊氏が崇拝した社です。

への字屋根: 膳所城下町は、城が水城であるため、濠の外側の東海道筋に面して町家を配し、その外側である東西に一般の侍屋敷を「造り土塀」で囲み配置されていました。さらに、城の防御と城下町を大きく錯覚させるよう、街道筋の屈曲を多くしたことから、街並みが長く「膳所の褌(ふんどし)町」といわれる所以となっています。江戸時代初めには町家のほとんどがわら葺き(1684年当時の様子)でしたが、参勤交代時、他藩大名の目に触れることから、街道に面した部分の見栄えを良くするため、町家に対し、街道に面する側は藩負担、反対側は家主負担で瓦葺とするよう命じられました。その結果が、街道側面積が広く、反対側が狭く改修されたということです。

比較のため大阪の町家の写真を示しました。わかりにくいですが、右側の屋根の奥側の陰を見ると、奥も道に面する側の雨どいのレベルまで下がっているのがわかります。大阪と異なり、近江の町民は頭の回転が速く、また、藩も太っ腹だったのだと思われます。

⑨膳所城勢多口総門跡: 膳所城下町の南の入口にあたります。「膳所城勢多口総門跡」の石碑が建つお家の左隣りが今はマンションとなっていますが、以前は下の写真のように番所であった古い家がありました。また、ここに建てられていた勢多口総門(南総門)は高麗門で、建部神社に移築されていましたが、昭和9年の室戸台風で倒壊して、実業家で日本美術コレクターの細見古香庵が購入し、大阪府泉大津市松之浜に移築されています
本物は大阪に移されましたが、膳所城跡公園入口にある模擬城門は、ここにあった勢多口総門(南総門)を正確に復元し建てたものです。


➉旧東海道「粟津の晴嵐」: 近江八景「粟津の晴嵐」として知られている松並木ですが、昔の面影はなく、現在は東海道も工場の間を抜ける道となって、2本の松しか生き残っておりません。「晴嵐」とは、強風に松の枝葉がざわめく様子から言われたとのことです。


⑪今井兼平墓碑: 今井兼平は木曽義仲の家臣で、寿永3年(1184)源義経らの軍と粟津で戦い、最期は口に刀をくわえて馬から飛びおりるという壮烈な死にざまであったといいます。江戸時代の寛文7年(1667)膳所藩主本多康将(やすまさ)が山手にあった墓碑を現在地に移しました。市指定文化財です。

今回はバラバラに保存されている膳所城遺構のいくつかを確認できました。2月25日にも膳所城を見る予定です。今回の膳所城下町巡りを企画いただいた関係者に感謝いたします。
このウォーキングの後、イタリアンで楽しい昼食となりました。 文責 岡島

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