2023年03月23日
2023年3月22日(水)八幡山城下町
本日は、レイカディア大学の課題学習で4回目の校外活動となります。八幡山城下町の情報収集のため、城下町を学ぶ課題学習グループ"沙沙貴組"4名は、下の散策マップに従って八幡山城下町を巡りました。近江八幡は、積極的に町並みの保存に取り組んでいることから、古き良き時代の雰囲気がそのまま保存されている場所が多数あります。
ご存じのように、八幡山城下町(八幡山下町)は豊臣秀次が築城した八幡山城の麓に、安土城下町から住民の移住を奨励し、形成された城下町です。
さらに詳しく言えば、八幡山城下町では、町屋地区の発掘調査で城下に先行する遺跡はほとんど確認されていないことから、新興住宅地のように既存集落のほとんどない新規空間に、上下水道(古式水道と背割排水)の整備と碁盤目状の地割を行い、そこに安土の城下町がそのまま引越して来て形成された町と言えます。
城址の方は城郭探訪会により訪問しており、こちらでその様子は確認できます。
八幡商業グラウンド辺りから散策の出発です。

下のマップはクリックで拡大します(観光マップへ)。
町が"筋"と"通り"と呼ぶ道で碁盤の目状に区切られているのは、道の呼び方や城へと繋がる「本町通」などを含めて、豊臣秀吉が作った大阪の町とそっくりです。のちに述べます背割排水や城に向かうという方向と関係し、12の〇〇通りには町家の正面玄関が面しているのに対して、直交する4つの〇〇筋(町の北西端部では5~6筋)は延々と町家の横壁か横塀が続く「通過」だけに有用な無表情な道だったと思われます。このように無表情な道でしたから、筋沿いでは東畳屋町や西畳屋町、間之町などの例外を除いて町名が付けられることはありませんでした。
なお、江戸時代の八幡町の様子は、リンクを付けましたので、滋賀県立図書館所蔵の江州八幡町絵図 と 聖心女子大の江州蒲生郡八幡町惣絵図で確認できます。
①大林八幡神社: 為心(いしん)町通を北に向かい最初に到達するのが、大林八幡神社です。為心町の町名は、城下町時代、豊臣秀次に仕えた医師の為心斎が居住していたことに因むと伝えられています。
②八幡協会: 為心町通をさらに進むと、八幡教会があります。W.M.ヴォーリズと関係がある教会です。
③岡田彌三右衛門邸: 為心町通。岡田家は古くから豪商として知られ、特に北海道の開発に尽力し、漁場の開発や炭鉱、農場、道路の開削工事、登別温泉の発見など多岐にわたっています。岡田家は元々武士だった家柄で、主家の没落と共に商家に転じ、当初は安土城の城下で店を構えていましたが、織田家の没落に伴い安土城が廃城となり、豊臣秀次が天正14年(1586)に八幡城を築城した際に当地に移りました。
④西川甚五郎邸: 為心町通を出て、左(西)を見ると450年余りの歴史を有する寝具の西川で知られる近江商人の西川甚五郎邸があります。
⑤白雲橋、日牟禮八幡宮の鳥居と白雲館: 白雲館は明治10年に八幡東学校として建築され、当時のお金6千円で設立されたもので、貴重な擬洋風建造物です。近江商人が子どもの教育充実を図るため、その費用の殆どが寄付で賄われました。現在は観光案内所が設けられ、観光情報の提供や、お土産や特産品も展示販売されています。
⑥日牟禮八幡宮: 伝承によれば、成務天皇元年(131年)、成務天皇が高穴穂の宮に即位の時、武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神(大国主神)を祀ったのが草創とされています。天正13年(1585年)に豊臣秀次が八幡山城を築城するため、山上の八幡宮を下の社に合祀し、その代替地として日杉山に祀りなおすこととなりました。しかし、秀次が高野山で自害したことにより、秀次ゆかりの八幡山城は廃城とされ、日杉山への社殿の移転は中止となり、現在のように1社の姿となっています。
八幡公園へ: 城下町を眺めるため、八幡公園に登ります。
⑦八幡公園からの眺望: 手前にシキボウの工場があり、今は近江八幡駅まで住宅で埋まっていますが、鉄道が敷かれた当時は、汽車の煙が嫌われて、背の高いビルの見える辺りは何も無く田園地帯で、近江八幡駅は旧市街から2kmほど離れた街外れにぽつんとある駅でした。
⑧豊臣秀次公銅像: 近江八幡市立図書館の裏手の八幡公園内にあり、昭和54年11月に豊臣秀次卿顕彰会により建てられました。近江八幡市街を見渡せる場所に建てられており、束帯姿の秀次が城下町を見つめています。城下町のうち八幡堀より山側には、家臣の武家屋敷が配置され、加えて、鉄砲町という地名が残されていることから、町人のうち鉄砲鍛冶も住まわされていたと考えられます。
この後、八幡堀を渡って、再度城下町に戻りますが、橋を渡ってすぐの所で池田町(いけだまち)に行くまでに、佐久間町があります。佐久間町は安土の佐久間町をこちらに移した町で、安土での佐久間町は織田信長の家臣(佐久間信盛)の名前に因み付けられたものです。
安土と八幡の町名の関係は、他の城下町ではあまり見られないほどの重複度で、秀次の命により安土の町がごっそりこちらに引っ越してきたことが関係しているように思われます。
⑨本町橋近く: 八幡堀に沿って歩きます。先に本町橋が見えています。
池田町を既に通り過ぎましたが、池田町(いけだまち)は安土の池田町を移したもので、その名も織田信長の家臣に因むものです。
➉背割排水: 覗いていますが、通りに面する町家が背と背を合わせる部分には「背割排水」と呼ばれる水路が通り、八幡堀に注がれています。下水道の役割を果たすとともに、沼沢地であったこの地域の排水に役立てられました。また、この排水路は町の境界にもなっており、通りを挟んで向かい合う町家は同じ町内(両側町)ですが、背中合わせの町家は、背割排水を境にして別の町に所属します。
大阪や長浜でも同様の排水路が作られ、町割もこのような排水路に基づいて決められていました。
⑪八幡堀船着場: この船着場と先ほどの背割排水の間に小幡(おばた)町と小幡町通がありましたが、小幡町は、神崎郡小幡村(五箇荘)の商人が移り住んでできた町と伝えられています。
⑫明治橋: 八幡堀の新町浜近くに架かる橋です。木調の雰囲気を出し、欄干に擬宝珠が付けられています。
江戸時代の雰囲気満点という明治橋から白雲橋にかけては『鬼平犯科帳』、『雲霧仁左衛門』、『刺客請負人』、『剣客商売』、『必殺仕事人』など多くの時代劇のロケ地になっています。
⑬薬師橋: むこうに見える橋です。薬師町にあり、薬師町は開町以前には東照寺があり、水辺から引き上げたという薬師如来をご本尊としていたことに因みます。現在、お寺は隣の多賀町に移転しています。
⑭永原町中: 永原町は、安土城永原町から住民を移住させて作られた町と伝えられています。この辺りは町が"筋"で区切られて、〇〇町上、〇〇町中、〇〇町元と分けられています。永原町からは、多くの豪商を輩出しています。
安土から移された町を3つ(佐久間町、池田町、永原町)紹介しましたが、その他、正神(庄神)町、小幡町、慈恩寺町も安土から八幡へ移されています。
⑮魚屋町(うわいちょう)元: 多くの魚屋が軒を並べた町です。「うわい」は魚市が変化したものと言われています。
⑯新町通: 新町周辺は、古い町並みがよく保存されています。国の重要伝統的建造物保存地域。江戸時代末期から明治にかけて建築された商家が整然と残る町並みは、近江商人のふるさととして、その保存運動が展開されています。この写真に写っている範囲のみ、電柱をなくすため電線の地下埋設が実施しされています。
⑰朝鮮人街道(京街道)とその碑
⑱本町通: 本町(ほんまち)は小幡町の1本西側の通り。八幡山城の真正面の通りで、城下の中心という意味で「本町」と名付けられましたが、商業街としては交差する京街道(朝鮮人街道)筋の方が栄えていたようです。
朝鮮人街道を西へ進むと北元町に江戸時代から昭和にかけての八幡瓦の鬼瓦を集めているお家がありましたので、いらっしゃったご主人に話しかけました。すると、下記の本を書かれたとおっしゃって、お家で保存されているたくさんの八幡の風景や花魁等の古写真などを見せてくださいました。その時のお話から、、街並み・町割りが秀次の頃から変わっていないこと、お伊勢参りの客が八幡の港に到着してここから千草越えしていたこと、その宿泊客を接待する花街がこのお家周囲にあったことなど、近江八幡の昔の状況が少しイメージできました。

⑲元玉屋町: お話の中に本のような花街があったということですので、その場所である元玉屋町に行ってみました。明確にはわかりませんでしたが、多分、この辺りだと思います。
⑳本願寺八幡別院: 永禄元(1558)年に本願寺第11代顕如上人が江州蒲生野に創建された金台寺を前身としています。天正8(1580)年に織田信長の寺地寄進により安土城下へ、文録元(1592)年に豊臣秀次の寺地寄進により八幡城下、現在の地へと移されました。その後、明治9(1876)年に八幡別院と改称され、今日に至っています。
今回は、同級生のT.T.さんの案内により、八幡山城下町を巡りました。
入念に調査した資料の提供とともに、解説をしていただいたことから、八幡山城下町は、安土から移された商人が城主がいなくなった後も独自の発展を成し遂げ、今日に至っている町であることを実感しました。町名や背割排水がそのまま使用され、町割りが昔から変わらず残されていることも確認できました。
すばらしい機会を設定いただきましてありがとうございました。
この後、沙沙貴組4名は、暑い中たくさん歩きましたので、反省会にて楽しく喉を潤しました。 文責 岡島 敏広
ご存じのように、八幡山城下町(八幡山下町)は豊臣秀次が築城した八幡山城の麓に、安土城下町から住民の移住を奨励し、形成された城下町です。
さらに詳しく言えば、八幡山城下町では、町屋地区の発掘調査で城下に先行する遺跡はほとんど確認されていないことから、新興住宅地のように既存集落のほとんどない新規空間に、上下水道(古式水道と背割排水)の整備と碁盤目状の地割を行い、そこに安土の城下町がそのまま引越して来て形成された町と言えます。
城址の方は城郭探訪会により訪問しており、こちらでその様子は確認できます。

八幡商業グラウンド辺りから散策の出発です。

下のマップはクリックで拡大します(観光マップへ)。
町が"筋"と"通り"と呼ぶ道で碁盤の目状に区切られているのは、道の呼び方や城へと繋がる「本町通」などを含めて、豊臣秀吉が作った大阪の町とそっくりです。のちに述べます背割排水や城に向かうという方向と関係し、12の〇〇通りには町家の正面玄関が面しているのに対して、直交する4つの〇〇筋(町の北西端部では5~6筋)は延々と町家の横壁か横塀が続く「通過」だけに有用な無表情な道だったと思われます。このように無表情な道でしたから、筋沿いでは東畳屋町や西畳屋町、間之町などの例外を除いて町名が付けられることはありませんでした。
なお、江戸時代の八幡町の様子は、リンクを付けましたので、滋賀県立図書館所蔵の江州八幡町絵図 と 聖心女子大の江州蒲生郡八幡町惣絵図で確認できます。

①大林八幡神社: 為心(いしん)町通を北に向かい最初に到達するのが、大林八幡神社です。為心町の町名は、城下町時代、豊臣秀次に仕えた医師の為心斎が居住していたことに因むと伝えられています。

②八幡協会: 為心町通をさらに進むと、八幡教会があります。W.M.ヴォーリズと関係がある教会です。

③岡田彌三右衛門邸: 為心町通。岡田家は古くから豪商として知られ、特に北海道の開発に尽力し、漁場の開発や炭鉱、農場、道路の開削工事、登別温泉の発見など多岐にわたっています。岡田家は元々武士だった家柄で、主家の没落と共に商家に転じ、当初は安土城の城下で店を構えていましたが、織田家の没落に伴い安土城が廃城となり、豊臣秀次が天正14年(1586)に八幡城を築城した際に当地に移りました。

④西川甚五郎邸: 為心町通を出て、左(西)を見ると450年余りの歴史を有する寝具の西川で知られる近江商人の西川甚五郎邸があります。

⑤白雲橋、日牟禮八幡宮の鳥居と白雲館: 白雲館は明治10年に八幡東学校として建築され、当時のお金6千円で設立されたもので、貴重な擬洋風建造物です。近江商人が子どもの教育充実を図るため、その費用の殆どが寄付で賄われました。現在は観光案内所が設けられ、観光情報の提供や、お土産や特産品も展示販売されています。

⑥日牟禮八幡宮: 伝承によれば、成務天皇元年(131年)、成務天皇が高穴穂の宮に即位の時、武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神(大国主神)を祀ったのが草創とされています。天正13年(1585年)に豊臣秀次が八幡山城を築城するため、山上の八幡宮を下の社に合祀し、その代替地として日杉山に祀りなおすこととなりました。しかし、秀次が高野山で自害したことにより、秀次ゆかりの八幡山城は廃城とされ、日杉山への社殿の移転は中止となり、現在のように1社の姿となっています。

八幡公園へ: 城下町を眺めるため、八幡公園に登ります。

⑦八幡公園からの眺望: 手前にシキボウの工場があり、今は近江八幡駅まで住宅で埋まっていますが、鉄道が敷かれた当時は、汽車の煙が嫌われて、背の高いビルの見える辺りは何も無く田園地帯で、近江八幡駅は旧市街から2kmほど離れた街外れにぽつんとある駅でした。

⑧豊臣秀次公銅像: 近江八幡市立図書館の裏手の八幡公園内にあり、昭和54年11月に豊臣秀次卿顕彰会により建てられました。近江八幡市街を見渡せる場所に建てられており、束帯姿の秀次が城下町を見つめています。城下町のうち八幡堀より山側には、家臣の武家屋敷が配置され、加えて、鉄砲町という地名が残されていることから、町人のうち鉄砲鍛冶も住まわされていたと考えられます。
この後、八幡堀を渡って、再度城下町に戻りますが、橋を渡ってすぐの所で池田町(いけだまち)に行くまでに、佐久間町があります。佐久間町は安土の佐久間町をこちらに移した町で、安土での佐久間町は織田信長の家臣(佐久間信盛)の名前に因み付けられたものです。
安土と八幡の町名の関係は、他の城下町ではあまり見られないほどの重複度で、秀次の命により安土の町がごっそりこちらに引っ越してきたことが関係しているように思われます。

⑨本町橋近く: 八幡堀に沿って歩きます。先に本町橋が見えています。
池田町を既に通り過ぎましたが、池田町(いけだまち)は安土の池田町を移したもので、その名も織田信長の家臣に因むものです。

➉背割排水: 覗いていますが、通りに面する町家が背と背を合わせる部分には「背割排水」と呼ばれる水路が通り、八幡堀に注がれています。下水道の役割を果たすとともに、沼沢地であったこの地域の排水に役立てられました。また、この排水路は町の境界にもなっており、通りを挟んで向かい合う町家は同じ町内(両側町)ですが、背中合わせの町家は、背割排水を境にして別の町に所属します。
大阪や長浜でも同様の排水路が作られ、町割もこのような排水路に基づいて決められていました。

⑪八幡堀船着場: この船着場と先ほどの背割排水の間に小幡(おばた)町と小幡町通がありましたが、小幡町は、神崎郡小幡村(五箇荘)の商人が移り住んでできた町と伝えられています。

⑫明治橋: 八幡堀の新町浜近くに架かる橋です。木調の雰囲気を出し、欄干に擬宝珠が付けられています。
江戸時代の雰囲気満点という明治橋から白雲橋にかけては『鬼平犯科帳』、『雲霧仁左衛門』、『刺客請負人』、『剣客商売』、『必殺仕事人』など多くの時代劇のロケ地になっています。

⑬薬師橋: むこうに見える橋です。薬師町にあり、薬師町は開町以前には東照寺があり、水辺から引き上げたという薬師如来をご本尊としていたことに因みます。現在、お寺は隣の多賀町に移転しています。

⑭永原町中: 永原町は、安土城永原町から住民を移住させて作られた町と伝えられています。この辺りは町が"筋"で区切られて、〇〇町上、〇〇町中、〇〇町元と分けられています。永原町からは、多くの豪商を輩出しています。
安土から移された町を3つ(佐久間町、池田町、永原町)紹介しましたが、その他、正神(庄神)町、小幡町、慈恩寺町も安土から八幡へ移されています。

⑮魚屋町(うわいちょう)元: 多くの魚屋が軒を並べた町です。「うわい」は魚市が変化したものと言われています。

⑯新町通: 新町周辺は、古い町並みがよく保存されています。国の重要伝統的建造物保存地域。江戸時代末期から明治にかけて建築された商家が整然と残る町並みは、近江商人のふるさととして、その保存運動が展開されています。この写真に写っている範囲のみ、電柱をなくすため電線の地下埋設が実施しされています。

⑰朝鮮人街道(京街道)とその碑

⑱本町通: 本町(ほんまち)は小幡町の1本西側の通り。八幡山城の真正面の通りで、城下の中心という意味で「本町」と名付けられましたが、商業街としては交差する京街道(朝鮮人街道)筋の方が栄えていたようです。

朝鮮人街道を西へ進むと北元町に江戸時代から昭和にかけての八幡瓦の鬼瓦を集めているお家がありましたので、いらっしゃったご主人に話しかけました。すると、下記の本を書かれたとおっしゃって、お家で保存されているたくさんの八幡の風景や花魁等の古写真などを見せてくださいました。その時のお話から、、街並み・町割りが秀次の頃から変わっていないこと、お伊勢参りの客が八幡の港に到着してここから千草越えしていたこと、その宿泊客を接待する花街がこのお家周囲にあったことなど、近江八幡の昔の状況が少しイメージできました。


⑲元玉屋町: お話の中に本のような花街があったということですので、その場所である元玉屋町に行ってみました。明確にはわかりませんでしたが、多分、この辺りだと思います。

⑳本願寺八幡別院: 永禄元(1558)年に本願寺第11代顕如上人が江州蒲生野に創建された金台寺を前身としています。天正8(1580)年に織田信長の寺地寄進により安土城下へ、文録元(1592)年に豊臣秀次の寺地寄進により八幡城下、現在の地へと移されました。その後、明治9(1876)年に八幡別院と改称され、今日に至っています。

今回は、同級生のT.T.さんの案内により、八幡山城下町を巡りました。
入念に調査した資料の提供とともに、解説をしていただいたことから、八幡山城下町は、安土から移された商人が城主がいなくなった後も独自の発展を成し遂げ、今日に至っている町であることを実感しました。町名や背割排水がそのまま使用され、町割りが昔から変わらず残されていることも確認できました。
すばらしい機会を設定いただきましてありがとうございました。
この後、沙沙貴組4名は、暑い中たくさん歩きましたので、反省会にて楽しく喉を潤しました。 文責 岡島 敏広
2023年9月5日(火)長浜城下町散策
2023年5月19日(金)佐和山城下町(鳥居本側)
2023年4月18日(火)佐和山城下町(琵琶湖側)
2023年4月18日(火)彦根城下町
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院
2023年3月28日(火)観音寺城下町石寺と沙沙貴神社
2023年5月19日(金)佐和山城下町(鳥居本側)
2023年4月18日(火)佐和山城下町(琵琶湖側)
2023年4月18日(火)彦根城下町
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院
2023年3月28日(火)観音寺城下町石寺と沙沙貴神社
Posted by
joukaku
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17:16
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