2022年12月17日
2022年12月13日(火)地域文化学科選択講座「彦根城の見方、調べ方」
11月22日に予定されていた彦根城での校外学習が延期となっておりましたが、本日実施されました。二の丸駐車場に集まり、中井先生から、彦根城の解説を聞きます。
まず、全体を把握するため、文化11年(1814)に描かれた彦根城の城内絵図を示しました。拡大しても見ることができます(「御城内御絵図」拡大)。
表御門橋を渡る前に外から、表御殿の屋根が見えます。彦根藩の政庁であるとともに藩主の居館(きょかん)でもあった建物で、昭和62年(1987)2月に復元され、現在、彦根城博物館になっています。その中で唯一、能舞台だけは現存する江戸時代のオリジナルの建物で、明治以降、博物館ができる前は井伊神社に移され、彦根市内の神社を転々としますが、博物館建設を機に本来の場所に移築復元されました。
明治9年の解体前の表御殿です。
これから、彦根城へ登城ですが、先生は表御門橋の上で立ち止まり、まず、石垣の説明をされました。堀の水面に接しているのが「腰巻石垣」、その上の緑の土塁のさらに上にあるのが「鉢巻石垣」で関東に多い様式です。
表門の内枡形に入りました。ここは表冠木御門と二階表御門櫓の櫓門の2つの門に挟まれた空間です。
先生は一方の二階表御門櫓の櫓門の礎石を示しておられます。
登り石垣: 彦根城には全国的にも珍しい登り石垣が、5か所に築かれています。登り石垣は、豊臣秀吉が晩年に行った朝鮮侵略の際、朝鮮各地で日本軍が築いた「倭城(わじょう)」において顕著に見られるもので、高さ1~2メートルの石垣が山の斜面を登るように築かれています。斜面を移動する敵の動きを阻止する目的で築かれました。国内では彦根城の他には、朝鮮に渡った経験のある大名が築城した洲本城(兵庫県)や松山城(愛媛県)などにしか見ることができません。井伊氏は朝鮮に渡っていませんが、彦根城築城を主導した公儀奉行が朝鮮に渡っており、作らせています。この登り石垣の上には、さらに瓦塀が築かれていたようです。
写真は①二階表御門櫓跡横の登り石垣です。城の南側からの侵入を防ぐため、左(南)側に竪堀が切られています。
②二階大手御門櫓跡横の登り石垣です。
③西の丸三重櫓下の登り石垣です。左(琵琶湖)側に竪堀が切られ、琵琶湖側から来る敵を封鎖しています。登り石垣の先には西の丸三重櫓が見えています。5か所の登り石垣のうち、3か所を見学しました。
入場券購入後、山切岸を左に見ながら坂を上ります。山切岸は彦根城の特徴です。4-9間(8-17m)の高さで山全体に切岸が施されていることから、山の斜面を登るのは不可能で彦根城には、限られた経路からしか登ることができません。
「鐘の丸」と「太鼓丸」の間の大堀切にたどり着きましたが、先生は私たちに「息が切れたか?」と質問され、息が切れたのなら、山城だとおっしゃいました。
大堀切: 彦根城を縄張り、つまり城本来の軍事的な防衛施設として見ると、その発達した様子がわかります。南北に長い尾根を整地して、郭を連ねた連郭式〔れんかくしき〕の平山城で、南から「鐘の丸」「太鼓丸」「本丸」そして「西の丸」が直線的に連なっており、「本丸」にいたる前後に構築された大堀切があります。大堀切は、彦根山の尾根を断ち切るように構築された大きな空堀です。
現在、「鐘の丸」と「太鼓丸」の間の大堀切で、頭上の橋を見上げていますが、「御城内御絵図」を拡大して見ると、橋は屋根の付いた「御廊下橋」であったことがわかります。この橋の辺りを境にして、「太鼓丸」の左右で石垣の積み方が変わっています。手前(表門)側は井伊直継により築城された当時の古いもの(野面積み)、向こう(大手門)側は幕末の積み直しによるもの(落とし積み)です。石垣はこれまで16回崩れて積み直されています。
「鐘の丸」に登り、180°ターンして(させられて)、先ほどの大堀切の方向に向かい、橋を渡って天秤櫓(てんびんやぐら)に入ります。この天秤櫓には、棟瓦の鬼板に長浜城主内藤信正の藤の丸(内藤藤)の家紋の入った紋瓦が遺されており、元和元年(1615)長浜城廃城に伴い移築されたものと伝えられています。彦根城の正面である大手門と表門からの敵に対しては、両者が合流する天秤櫓の外側に大きな堀切で切られています。現在は橋が架かっていますが、この橋を落とせば天秤櫓の高い石垣を登らないと本丸方面へ侵入できません。同様に搦め手(からめて:裏手)からの敵に対しては、西の丸の三重櫓の外に大堀切があって侵入を阻んでいます。
ところで、先生は授業の最後に説明されましたが、「鐘の丸」は、真田丸などでも有名な武田氏の城の作り方の「丸馬出」であるとのことでした。
「太鼓丸」に入りました。天秤櫓の裏側の櫓門です。
天秤櫓内の隠狭間です。隠狭間はここと天守に設けられていますが、特に天守は外観の美しさが大切であることから、こちらも含めて隠狭間とされています。
また、人の高さの横木までは土壁が分厚くしてあり、それより上の壁は薄くなっていることがわかります。その状況は、下の櫓内の天井を示した写真でも確かめることが出来ます。そのようにしているのは、鉄砲からの防御を考慮してのものです。
天秤櫓の天井です。純粋に軍事施設であることから、天井は張られていません。左の「鐘の丸」側の壁が厚くなっています。
続櫓及び太鼓門が「本丸」への最終の門です。「本丸」の内側から撮影していますが、門の向こう側は外枡形となっており、場所によっては石垣を積むだけでなく、天然の岩を削って枡形を作り、また、排水も岩を削って溝を作っています。こちらの内側には縁(廊下)が回っています。通常は石垣の上に櫓が載っているだけで、縁のある例は他にありません。
御殿跡の礎石で、一部二階の御殿が建てられ、彦根城築城当初、藩主はここに住んでおり、この位置から天守は御殿の屋根越しでしか見えませんでした。御殿は幕末まで存在していましたが、大坂との緊張が無くなって後、参勤交代など大坂よりも江戸を見るようになると、江戸側の麓の表門の方に表御殿を建て、移っています。
通常表門から入り天守をめざすと、下写真の天守(南面)を見ます。しかし、こちら側は正面ではありません。天守台は尾張衆により積まれたものです。
下は天守の西面で彦根城は関ケ原合戦後、大阪の豊臣秀頼を仮想敵と想定して建てられた城であることから、西側が大手側であり、長方形の天守であることから、南面よりも大きく豪華に見える正面の姿です。
天守には破風がたくさん用いられて、大きく見えるようにしていますし、花頭窓も通常の城では最上階に設けられますが、最上階の三階に加えて二階にも用いられています。また、三階には外には出ることが出来ませんが、飾りとして高欄付きの「廻縁(まわりえん)」を巡らせるなど外観に重きを置いたつくりになっています。彦根城天守は徳川家康が大津城を目出度い天守であるとして、井伊家に与え移築したものですが、大津城は四重五階であったものを、彦根城では材木だけを用いて三重三階に作り変えられています。
天守内に入りましたが、天秤櫓と同じで、狭間がありますが、隠狭間になっています。
天守内の中心は「身舎(もや)」という部屋となっており、廊下が周りを回る形になっています。中井先生は、天守に登った観光客が「城主はいつも素晴らしい眺めを楽しめていいですね」という感想を述べることがありますが、実態は城主は一生に一度天守に登るかどうかという程度で、彦根城天守に関しては、物置のように歴代の城主の甲冑が納められていたと古文書に記録されているそうです。
「井戸曲輪」外よりの東側石垣の眺望で、「井戸曲輪」と「本丸」の石垣が見えています。
「井戸曲輪」の外よりその門と天守(東面)の方を見ました。ここまで登ってくるのに道は、くの字状に曲げられて、ようやく門に辿り着くと門を通れるのは1人、門を通り抜けても櫓の狭間が真正面です。鉄砲での狙い撃ちを受け命はありません。
私たちは、そのまま下まで下りて黒門まで行きます。黒門の古写真を示しました。今は城内に桜が植えられたり、広葉樹が生えていますが、当時は、松を植えるのが奨励されていました。松は縁起が良いこともありますが、よく燃えて薪にできます。古写真にもたくさんの松が生えているのが見えます。
黒門口から城を出て、ここで昼食のため、休憩しました。
昼食後、佐和口から、再度、彦根城の見学を再開しました。まず、先生は佐和口高麗門のほぞ穴のある礎石を指し示して、茶色く鉄錆の跡があるのはオリジナルの門に巻いてあった鉄板の跡で、その上を車が走って錆を削り取ってゆくのは問題だとおっしゃいました。
見上げると、佐和口多聞櫓があります。写真は表(城外)側の近景と遠景です。天守や天秤櫓と異なり、壁面には窓と狭間が見え、近づくと撃つというように威嚇しているようです。

佐和口多聞櫓の裏(城内)側です。表側とは異なり窓や狭間はなく、たくさんの扉と雁木が設けられていて、いざという時、多くの兵が一気に櫓内に駆け込み、城を守れるという設計になっています。
筆頭家老木俣土佐(10000石)の旧屋敷で、藩主が参勤交代から馬に乗って次に示すいろは松の横を通って戻ると、まずこの屋敷で休憩をとり、表御殿に入ったそうです。逆に、参勤交代に出る時は藩主は船に乗って松原内湖から米原まで行き、そこから中山道を進みました。
ちなみに、井伊直政が関ケ原の傷で亡くなったときに嫡子直継〔なおつぐ〕は若年で、木俣土佐守守勝〔きまたとさのもりもりかつ〕は直政より後事を託されました。そのとき、直政の遺言は佐和山から磯山への城の移築でしたが、その移築計画を徳川家康にはかり、許可を得て慶長9年(1604)7月1日、佐和山城の西方約2キロメートルのここ彦根山において、築城工事を始めた人物です。
馬屋の長屋門です。ここには藩主の馬を常備し、21頭収容できました。天守は「現存12天守」と言われ、12残されているのが有名ですが、この写真の馬屋はここ彦根城にしか残されていない唯一のもので国の重要文化財に指定されています。ちなみに、御殿は4つ残されているのだそうです。
馬屋内部です。
いろは松: 表門橋に向かう中堀の沿道の松並木で、冬であっても緑を保つ松は縁起が良く、参勤交代から帰郷した藩主を佐和口で出迎えるために植えられました。"47"本あったので、その最初の3文字からこの名が付けられました。現在34本(補植12本)残り、当時の面影が偲ばれます。
外堀まで行きました。昭和22年までは水を湛えていましたが、マラリア防止のために埋め立てられました。ここより内側の中堀と外堀の間には中下級武士が住んでいました。また、この間に中堀・武家屋敷・町人屋敷・武家屋敷・外堀というように、町人は武家に挟まれて居住し、さらにその外側の外堀と南側にある芹川の間には足軽が住んで、大坂から攻められたときの備えとしていました。
中堀まで戻り、中堀に面した所に旧鈴木屋敷長屋門があります。1862年に建てられた350石の中級武士の屋敷です。
さらに進んで、京橋口から中堀を渡り、再度城に入ります。解体前の京橋口門古写真です。彦根城は明治になり、時の政府により解体されることが決定しました。しかし、明治天皇が明治11年10月、北陸巡幸を終え、彦根を通られたときに、解体は始まっていましたが、保存するようにと大命を下され、一転して保存されることになりました。一説には、随行した参議大隈重信がその消失を惜しみ、天皇に奉上したとする説。 また一説には、天皇が近江町長沢の福田寺で小休止されたとき、住持攝専(せっせん)夫人で、天皇の従妹(いとこ)にあたるかね子が奉上したとも言われています。
ちなみに、解体が決定した米子城は古物商に売られて、その材木は風呂の薪となったそうです。
京橋口枡形にある鏡石です。ここは上の古写真にあるような高麗門とその奥の櫓門に囲われた空間で、大手側ですので、最初の入城時に通った表門の石垣に比べ、大きく立派な石が2つ用いられています。しかし、大坂夏の陣で豊臣氏が滅び、参勤交代が行われるようになると、実質的な大手が表門側に変わります。
中堀と内堀の間は先の木俣土佐(10000石)を含む重臣の屋敷地です。写真は旧西郷(6000石)屋敷長屋門で、この裏は大津地方裁判所になっています。この屋敷の正面に長野主膳邸がありましたが、現在は彦根東高校(一中)になっています。
大手門橋
大手口高麗門の礎石です。柱がずれないよう、ほぞ穴があります。
写真は大手口から内堀に沿って北に進んだ彦根市立西中学校(藩校弘道館跡)の近くにある水門跡です。米を舟から運び込むための門で、枡形にはなっていません。現在、門の内側は梅林になっていますが、元は幕府からの支給米5万石を保管するための米蔵が17棟建てられていました。
ちなみに、現在においても米蔵が残されている城は、二条城です。
最後に彦根城で見られるめずらしい石垣の積み方のある場所の説明を受けました。通常は攻め手を複数の方向から撃退するため、石垣には隅の部分を設けますが、ここの腰巻石垣は丸く、出積みがありません。その理由は、この石垣の上方に「鐘の丸」があるからです。「鐘の丸」は武田氏の城の作り方(早川幸豊による甲州流)の「丸馬出」であって、それを生かすために下方の石垣の形状が影響を受けたものです。
この後、朝に集合した二の丸駐車場まで戻り、解散となりました。お疲れさまでした。
文責 岡島 敏広

まず、全体を把握するため、文化11年(1814)に描かれた彦根城の城内絵図を示しました。拡大しても見ることができます(「御城内御絵図」拡大)。

表御門橋を渡る前に外から、表御殿の屋根が見えます。彦根藩の政庁であるとともに藩主の居館(きょかん)でもあった建物で、昭和62年(1987)2月に復元され、現在、彦根城博物館になっています。その中で唯一、能舞台だけは現存する江戸時代のオリジナルの建物で、明治以降、博物館ができる前は井伊神社に移され、彦根市内の神社を転々としますが、博物館建設を機に本来の場所に移築復元されました。

明治9年の解体前の表御殿です。

これから、彦根城へ登城ですが、先生は表御門橋の上で立ち止まり、まず、石垣の説明をされました。堀の水面に接しているのが「腰巻石垣」、その上の緑の土塁のさらに上にあるのが「鉢巻石垣」で関東に多い様式です。

表門の内枡形に入りました。ここは表冠木御門と二階表御門櫓の櫓門の2つの門に挟まれた空間です。

先生は一方の二階表御門櫓の櫓門の礎石を示しておられます。

登り石垣: 彦根城には全国的にも珍しい登り石垣が、5か所に築かれています。登り石垣は、豊臣秀吉が晩年に行った朝鮮侵略の際、朝鮮各地で日本軍が築いた「倭城(わじょう)」において顕著に見られるもので、高さ1~2メートルの石垣が山の斜面を登るように築かれています。斜面を移動する敵の動きを阻止する目的で築かれました。国内では彦根城の他には、朝鮮に渡った経験のある大名が築城した洲本城(兵庫県)や松山城(愛媛県)などにしか見ることができません。井伊氏は朝鮮に渡っていませんが、彦根城築城を主導した公儀奉行が朝鮮に渡っており、作らせています。この登り石垣の上には、さらに瓦塀が築かれていたようです。
写真は①二階表御門櫓跡横の登り石垣です。城の南側からの侵入を防ぐため、左(南)側に竪堀が切られています。

②二階大手御門櫓跡横の登り石垣です。

③西の丸三重櫓下の登り石垣です。左(琵琶湖)側に竪堀が切られ、琵琶湖側から来る敵を封鎖しています。登り石垣の先には西の丸三重櫓が見えています。5か所の登り石垣のうち、3か所を見学しました。

入場券購入後、山切岸を左に見ながら坂を上ります。山切岸は彦根城の特徴です。4-9間(8-17m)の高さで山全体に切岸が施されていることから、山の斜面を登るのは不可能で彦根城には、限られた経路からしか登ることができません。

「鐘の丸」と「太鼓丸」の間の大堀切にたどり着きましたが、先生は私たちに「息が切れたか?」と質問され、息が切れたのなら、山城だとおっしゃいました。
大堀切: 彦根城を縄張り、つまり城本来の軍事的な防衛施設として見ると、その発達した様子がわかります。南北に長い尾根を整地して、郭を連ねた連郭式〔れんかくしき〕の平山城で、南から「鐘の丸」「太鼓丸」「本丸」そして「西の丸」が直線的に連なっており、「本丸」にいたる前後に構築された大堀切があります。大堀切は、彦根山の尾根を断ち切るように構築された大きな空堀です。
現在、「鐘の丸」と「太鼓丸」の間の大堀切で、頭上の橋を見上げていますが、「御城内御絵図」を拡大して見ると、橋は屋根の付いた「御廊下橋」であったことがわかります。この橋の辺りを境にして、「太鼓丸」の左右で石垣の積み方が変わっています。手前(表門)側は井伊直継により築城された当時の古いもの(野面積み)、向こう(大手門)側は幕末の積み直しによるもの(落とし積み)です。石垣はこれまで16回崩れて積み直されています。

「鐘の丸」に登り、180°ターンして(させられて)、先ほどの大堀切の方向に向かい、橋を渡って天秤櫓(てんびんやぐら)に入ります。この天秤櫓には、棟瓦の鬼板に長浜城主内藤信正の藤の丸(内藤藤)の家紋の入った紋瓦が遺されており、元和元年(1615)長浜城廃城に伴い移築されたものと伝えられています。彦根城の正面である大手門と表門からの敵に対しては、両者が合流する天秤櫓の外側に大きな堀切で切られています。現在は橋が架かっていますが、この橋を落とせば天秤櫓の高い石垣を登らないと本丸方面へ侵入できません。同様に搦め手(からめて:裏手)からの敵に対しては、西の丸の三重櫓の外に大堀切があって侵入を阻んでいます。
ところで、先生は授業の最後に説明されましたが、「鐘の丸」は、真田丸などでも有名な武田氏の城の作り方の「丸馬出」であるとのことでした。

「太鼓丸」に入りました。天秤櫓の裏側の櫓門です。

天秤櫓内の隠狭間です。隠狭間はここと天守に設けられていますが、特に天守は外観の美しさが大切であることから、こちらも含めて隠狭間とされています。
また、人の高さの横木までは土壁が分厚くしてあり、それより上の壁は薄くなっていることがわかります。その状況は、下の櫓内の天井を示した写真でも確かめることが出来ます。そのようにしているのは、鉄砲からの防御を考慮してのものです。

天秤櫓の天井です。純粋に軍事施設であることから、天井は張られていません。左の「鐘の丸」側の壁が厚くなっています。

続櫓及び太鼓門が「本丸」への最終の門です。「本丸」の内側から撮影していますが、門の向こう側は外枡形となっており、場所によっては石垣を積むだけでなく、天然の岩を削って枡形を作り、また、排水も岩を削って溝を作っています。こちらの内側には縁(廊下)が回っています。通常は石垣の上に櫓が載っているだけで、縁のある例は他にありません。

御殿跡の礎石で、一部二階の御殿が建てられ、彦根城築城当初、藩主はここに住んでおり、この位置から天守は御殿の屋根越しでしか見えませんでした。御殿は幕末まで存在していましたが、大坂との緊張が無くなって後、参勤交代など大坂よりも江戸を見るようになると、江戸側の麓の表門の方に表御殿を建て、移っています。

通常表門から入り天守をめざすと、下写真の天守(南面)を見ます。しかし、こちら側は正面ではありません。天守台は尾張衆により積まれたものです。

下は天守の西面で彦根城は関ケ原合戦後、大阪の豊臣秀頼を仮想敵と想定して建てられた城であることから、西側が大手側であり、長方形の天守であることから、南面よりも大きく豪華に見える正面の姿です。
天守には破風がたくさん用いられて、大きく見えるようにしていますし、花頭窓も通常の城では最上階に設けられますが、最上階の三階に加えて二階にも用いられています。また、三階には外には出ることが出来ませんが、飾りとして高欄付きの「廻縁(まわりえん)」を巡らせるなど外観に重きを置いたつくりになっています。彦根城天守は徳川家康が大津城を目出度い天守であるとして、井伊家に与え移築したものですが、大津城は四重五階であったものを、彦根城では材木だけを用いて三重三階に作り変えられています。

天守内に入りましたが、天秤櫓と同じで、狭間がありますが、隠狭間になっています。

天守内の中心は「身舎(もや)」という部屋となっており、廊下が周りを回る形になっています。中井先生は、天守に登った観光客が「城主はいつも素晴らしい眺めを楽しめていいですね」という感想を述べることがありますが、実態は城主は一生に一度天守に登るかどうかという程度で、彦根城天守に関しては、物置のように歴代の城主の甲冑が納められていたと古文書に記録されているそうです。

「井戸曲輪」外よりの東側石垣の眺望で、「井戸曲輪」と「本丸」の石垣が見えています。

「井戸曲輪」の外よりその門と天守(東面)の方を見ました。ここまで登ってくるのに道は、くの字状に曲げられて、ようやく門に辿り着くと門を通れるのは1人、門を通り抜けても櫓の狭間が真正面です。鉄砲での狙い撃ちを受け命はありません。

私たちは、そのまま下まで下りて黒門まで行きます。黒門の古写真を示しました。今は城内に桜が植えられたり、広葉樹が生えていますが、当時は、松を植えるのが奨励されていました。松は縁起が良いこともありますが、よく燃えて薪にできます。古写真にもたくさんの松が生えているのが見えます。

黒門口から城を出て、ここで昼食のため、休憩しました。
昼食後、佐和口から、再度、彦根城の見学を再開しました。まず、先生は佐和口高麗門のほぞ穴のある礎石を指し示して、茶色く鉄錆の跡があるのはオリジナルの門に巻いてあった鉄板の跡で、その上を車が走って錆を削り取ってゆくのは問題だとおっしゃいました。

見上げると、佐和口多聞櫓があります。写真は表(城外)側の近景と遠景です。天守や天秤櫓と異なり、壁面には窓と狭間が見え、近づくと撃つというように威嚇しているようです。


佐和口多聞櫓の裏(城内)側です。表側とは異なり窓や狭間はなく、たくさんの扉と雁木が設けられていて、いざという時、多くの兵が一気に櫓内に駆け込み、城を守れるという設計になっています。

筆頭家老木俣土佐(10000石)の旧屋敷で、藩主が参勤交代から馬に乗って次に示すいろは松の横を通って戻ると、まずこの屋敷で休憩をとり、表御殿に入ったそうです。逆に、参勤交代に出る時は藩主は船に乗って松原内湖から米原まで行き、そこから中山道を進みました。
ちなみに、井伊直政が関ケ原の傷で亡くなったときに嫡子直継〔なおつぐ〕は若年で、木俣土佐守守勝〔きまたとさのもりもりかつ〕は直政より後事を託されました。そのとき、直政の遺言は佐和山から磯山への城の移築でしたが、その移築計画を徳川家康にはかり、許可を得て慶長9年(1604)7月1日、佐和山城の西方約2キロメートルのここ彦根山において、築城工事を始めた人物です。

馬屋の長屋門です。ここには藩主の馬を常備し、21頭収容できました。天守は「現存12天守」と言われ、12残されているのが有名ですが、この写真の馬屋はここ彦根城にしか残されていない唯一のもので国の重要文化財に指定されています。ちなみに、御殿は4つ残されているのだそうです。

馬屋内部です。

いろは松: 表門橋に向かう中堀の沿道の松並木で、冬であっても緑を保つ松は縁起が良く、参勤交代から帰郷した藩主を佐和口で出迎えるために植えられました。"47"本あったので、その最初の3文字からこの名が付けられました。現在34本(補植12本)残り、当時の面影が偲ばれます。

外堀まで行きました。昭和22年までは水を湛えていましたが、マラリア防止のために埋め立てられました。ここより内側の中堀と外堀の間には中下級武士が住んでいました。また、この間に中堀・武家屋敷・町人屋敷・武家屋敷・外堀というように、町人は武家に挟まれて居住し、さらにその外側の外堀と南側にある芹川の間には足軽が住んで、大坂から攻められたときの備えとしていました。

中堀まで戻り、中堀に面した所に旧鈴木屋敷長屋門があります。1862年に建てられた350石の中級武士の屋敷です。

さらに進んで、京橋口から中堀を渡り、再度城に入ります。解体前の京橋口門古写真です。彦根城は明治になり、時の政府により解体されることが決定しました。しかし、明治天皇が明治11年10月、北陸巡幸を終え、彦根を通られたときに、解体は始まっていましたが、保存するようにと大命を下され、一転して保存されることになりました。一説には、随行した参議大隈重信がその消失を惜しみ、天皇に奉上したとする説。 また一説には、天皇が近江町長沢の福田寺で小休止されたとき、住持攝専(せっせん)夫人で、天皇の従妹(いとこ)にあたるかね子が奉上したとも言われています。
ちなみに、解体が決定した米子城は古物商に売られて、その材木は風呂の薪となったそうです。

京橋口枡形にある鏡石です。ここは上の古写真にあるような高麗門とその奥の櫓門に囲われた空間で、大手側ですので、最初の入城時に通った表門の石垣に比べ、大きく立派な石が2つ用いられています。しかし、大坂夏の陣で豊臣氏が滅び、参勤交代が行われるようになると、実質的な大手が表門側に変わります。

中堀と内堀の間は先の木俣土佐(10000石)を含む重臣の屋敷地です。写真は旧西郷(6000石)屋敷長屋門で、この裏は大津地方裁判所になっています。この屋敷の正面に長野主膳邸がありましたが、現在は彦根東高校(一中)になっています。

大手門橋

大手口高麗門の礎石です。柱がずれないよう、ほぞ穴があります。

写真は大手口から内堀に沿って北に進んだ彦根市立西中学校(藩校弘道館跡)の近くにある水門跡です。米を舟から運び込むための門で、枡形にはなっていません。現在、門の内側は梅林になっていますが、元は幕府からの支給米5万石を保管するための米蔵が17棟建てられていました。
ちなみに、現在においても米蔵が残されている城は、二条城です。

最後に彦根城で見られるめずらしい石垣の積み方のある場所の説明を受けました。通常は攻め手を複数の方向から撃退するため、石垣には隅の部分を設けますが、ここの腰巻石垣は丸く、出積みがありません。その理由は、この石垣の上方に「鐘の丸」があるからです。「鐘の丸」は武田氏の城の作り方(早川幸豊による甲州流)の「丸馬出」であって、それを生かすために下方の石垣の形状が影響を受けたものです。

この後、朝に集合した二の丸駐車場まで戻り、解散となりました。お疲れさまでした。
文責 岡島 敏広
2022年11月02日
2022年11月1日(火) 地域文化学科選択講座「安土城の見方、調べ方」
中井先生によるレイカディア大学地域文化学科選択講座の第3回目の校外学習です。本日はあいにくの雨模様ですが、授業ですので、先生に挨拶しまして安土城に登り、その後、安土の城下町を見学する予定です。
安土城は、ご存じのように織田信長により築城された城です。
また、安土城は滋賀県により平成元年から発掘調査されており、その前に訪れその時の記憶のある人は様子が大きく変わっているという印象を持っておられるのではないでしょうか?歴史とともに発掘調査の裏話までご存じの先生は、開口一番、「安土城が築城された当時の絵図は一つも残されておらず、安土城築城(1576年)後、100年を過ぎた江戸時代(1687年)に描かれた絵図(近江国蒲生郡安土古城図)が最古です。」とおっしゃいました。したがって、現在、下図にあるような、安土城の各所に名づけられている屋敷地名は江戸時代の絵図に基づいています。
NHK番組「歴史探偵」で示されたVRに基づく南側から見る安土城の風景です。ルイス・フロイスの記録では、上級家臣たちの諸邸宅が手柄に応じて安土山の山腹や山麓部に上部に向かって重なり合うように建てられていたとされています。
まず、最初に訪れたのが、山麓にある「伝羽柴秀吉邸跡」です。そして、「伝羽柴秀吉邸跡は屋敷跡の構造から、羽柴秀吉邸であるはずがない」とお話が始まりました。というのは、「伝羽柴秀吉邸跡」は一等地にあり、上の「大手道周辺」地図のように二段の屋敷の構造となっています。まず、下段の屋敷地を訪れますと、門の礎石があり、写真のように階段を上った後の平坦地には馬屋があったと思われる構造となっています。写真奥にも大きな石垣が見えていますが、この上が屋敷地で、そこには書院があって秀吉よりも格上の人が住んでいたと考えられ、立地及び広さ等もあわせて考えると、これは信長自身の屋敷跡で山裾に御殿を構えていたと考えるのが妥当とのことでした。ここは天主周辺とは異なり焼けていません。ちなみに、秀吉は安土城築城3年前に長浜城主となっていて、普段は住んでいなかったと考えられます。
「大手道」を挟んで「伝羽柴秀吉邸跡」の反対(北)側にあるのが、「伝徳川家康邸跡」ですが、ここには江戸時代末期1854年に焼けた摠見寺の仮本堂が建てられています。写真は「伝徳川家康邸跡」の石垣の隅角部分を写していますが、2つの隅角部分があり、手前は発掘調査後積み直されたもの、奥に見えるのが、元からあった隅角部分です。

下は安土山南斜面にある焼けた摠見寺本堂跡です。この手前を発掘調査すると、深さ1mの所から礎石が見つかっています。信長は安土城の完成前に城に移ってきていますので、先生は天正4年1~2月の城の完成前に住んでいた仮御殿の礎石ではないかと考えておられます。
「伝羽柴秀吉邸跡」「伝徳川家康邸跡」より少し登った地点より「大手道」を見下ろしていますが、ここも本当は大手道ではなく、百々(どど)橋口までの町なかの道が安土城の本当の大手道(登城口までの城下町内の道)で、百々橋口から城へ登る道は登城道と呼ぶのだそうです。その理由は、大手道は城下町内を通ります。しかし、現在いう「大手道」を下りた先から県道2号(朝鮮人街道/下街道)までは堀で、その先は今は干拓されて畑になっていますが、湿地帯が広がっていて人が誰も住んでおらず城下町ではなかったからです。今も人は住んでいません。
直線のいわゆる「大手道」を登って左に曲がった地点から摠見寺仮本堂の方を見ています。木立の間に小さく石の階段が見えていますが、摠見寺住職の墓へと通じる道で、徳川家は摠見寺住職は信長の家系の人を就任させることにしたのだそうです。
この地点辺りから、石段などに石仏を転用している(転用石を用いている)のが見られる所で、観光客により賽銭が供えられたりしています。しかし、信長は美的感覚が厳しく、転用石は目立たない所に用い、石垣などの目立つ所には用いておりません。信長は転用して宗教を弾圧するつもりはなく、逆に安土城内に摠見寺というお寺を建てています。
また、黒金門までの途中に「織田信澄邸址」や「伝森蘭丸邸址」の碑がありましたが、先生によれば、江戸時代の絵図にもなく、県の方で城の中心部に近いから、蘭丸や甥の信澄なら住んでいただろうと想像して、勝手に碑を建てたのだそうです。
先生が黒金門の礎石(オリジナル)の上に立っていますが、左の小さな礎石は黒金門の潜戸の礎石です。ここに大きな黒金門があって、門を奥へと開くと、扉は先生の後ろに迫った階段にぶつかり開けられません。すなわち、この階段は門のことは無視して、後になって取り付けられた階段であることがわかります。城の中心部へ入る黒金門の下辺りから用いられている石材の大きさが大型化しています。石材としては安土山を形づくっている湖東流紋岩が用いられていることから、山から採れる石をそのまま石垣などに利用していることがわかります。
フィリップス・ファン・ウィンゲ(1560-92)によるバチカン宮殿安土城屏風の櫓門部分模写(右側石垣巨石は見せるためのもので、主要門である伝黒鉄門、本丸西門、本丸南門のいずれかの可能性大)
NHK番組「歴史探偵」のVR画像も示します。
左:黒鉄門への枡形虎口入口で先生 右: 黒鉄門
の立っている辺り

ここから三の丸~天主へと行きます。三の丸には織田信雄(のぶかつ)の家系四代の墓所があります。本能寺の変で嫡男の信忠が討ち死にしていることから、織田家の嫡流は次男の信雄の一族であると主張したいのでしょう。
写真は信雄一族の墓所から出て、仏足石方向に向かう角の二の丸石垣の隅角部分で、オリジナルのまま触られていないものです。すでに算木積みの技術が用いられており、小谷城では垂直ですが、信長時代には傾斜して寝てきております。
二の丸、本丸への登り口に仏足石が置かれていました。これも当初は転用石として「仏足」は隠すようにして石垣に用いられていたと考えられます。珍しいので、ここに飾っているのだそうです。
二の丸、本丸への階段ですが、半分だけ石段にされています。元は土部分も含む幅広い階段であったものを、すべては復元していないのだそうです。
階段を上り左に行くと、信長公本廟(二の丸)があります。廟所は秀吉が建てたもので、おそらく信長の御座所(御幸の御間)であったことを考慮して場所が選定されていると思われます。現在、廟の正面の石垣は美しい切り石が隙間なく積まれていますが、この石垣は幕末に摘み直されたものです。
秀吉は主筋の織田家に取って代わり、天下を乗っ取っていますから、ここに信長の廟所を設け、織田家を廟所としての安土城に封印したかったのでしょう。後の豊臣秀次の時には、八幡山城を築き、安土の城下町全体も近江八幡に移しています。
写真は石段正面にある「蛇石」ではないかと考えられている石です。信長公記巻九(天正四年安土御普請)の1万余の人数をかけて三日三晩かかって引き上げたにしては、小さい印象です。他には可能性のある石は見つかっていないことから、中井先生は天主台など(加藤理文先生は信長の御座所の信長公本廟(二の丸)?)の下に埋められているのではないかと考えておられます。
写真の奥の石垣は天主台の石垣で、ここには火がかかっていて、表面が焼けてボロボロとなっています。地面からも焼けた瓦片、木炭になった柱や焼けて赤くなった土が見つかっています。安土城天主を焼いた張本人については、説はありますが、不明です。
本丸跡に来ました。本丸御殿の礎石には焼けた跡があるそうで、先生は礎石の上に立っています。この礎石は武家屋敷と異なり、7尺2寸(約2.18m)の間隔で設置され、天皇の住まいの内裏清涼殿に似て、瓦も見つかっていないので檜皮葺の屋根であったと考えられます。この後の時代に、城の本丸御殿に檜皮葺屋根を用いるのは、安土城が始まりと考えられています。
天主台に上がる階段ですが、ここは建物の内部であったと考えられ、笏谷石が敷き詰められています。雨が降って石の特徴の美しい緑色が確かめられます。この笏谷石は柴田勝家が信長に切石数百を7月11日に進上したと信長公記巻十四に記載されていますので、その切石そのものと考えられます。階段中央は人が通るので、笏谷石が割れています。
この後、有名な天主台に登り、礎石等を確認しました。これらの礎石は本物で貴重であることから、将来は礎石の上に乗ることが出来なくなるかもしれないとおっしゃておりました。安土城の天主の想像図はたくさんありますが、静嘉堂文庫所蔵の「天守指図」に基づいた内藤昌先生の復元案が最も有名です。中井先生は根拠とする文献が同じでも、何故そんなに多様な復元案ができるのだろうと不思議そうにおっしゃっていました。
フィリップス・ファン・ウィンゲ(1560-92)によるバチカン宮殿安土城屏風の天主望楼の模写(部分)を下に示しました。各先生の復元案と整合するかはわかりませんが、模写は五、六階の望楼部のみを表現し、後ろに人らしきものが見えるのは、琵琶湖に浮かぶ船を描いたものと思われます。
信長がこの城を建てることにより、それ以降築城される日本の「城」の概念を打ち立てたと言えるそうです。また、安土城を築城した時には信長は家督を信忠に譲っていたことから、安土城は実用的というよりも金箔瓦を用いたプライベート(趣味的)な城であるとも言えるようです。
南西側にある百々橋口で本当の登城道の入口です。
安土城城下町は六角氏の観音寺城下東山道沿いの石寺にあったものを信長がこちらに移し、八幡山城が築城されてからは、豊臣秀次によって町全体が八幡の方に移されています。
安土城城下町の見学では、本当の大手道沿いにある「新宮大社」に立ち寄りました。ここの茅葺き拝殿は18世紀中頃の建物と考えられており、その中にはご覧のように「竹相撲」の様子が描かれています。信長は相撲が好きで、この絵は、両者互角で、結局相撲の勝敗が付かず、褒美として、信長が一方に「東」、他方に「西」という名字を与えたことを示しています。このうちの「東」さんは現在も安土町内にお住いで、この逸話から、相撲では「ひがし~ぃ、にし~ぃ」と力士を呼び出すのだそうです。ちなみに、「西」さんは転居されています。
ところで、この絵には織田氏家紋の「織田木瓜(もっこう)」が描かれています。 この家紋は、織田氏が越前にいた頃、朝倉氏(家紋は「三つ盛り木瓜」)より妻を迎えた時に与えられたとされています。他方、信長が足利義昭を連れて上洛し、朝倉義景に上洛を求めても従わなかったこと、最終的に、従わなかったことを理由に朝倉氏を滅ぼしたという事実との因縁が伺われます。

大手道を先に進むと、相撲の東さんのお家は、「東家住宅」として前に観光案内の看板が建てられていました。

最後に、セミナリヨ跡が本日のゴールです。安土のセミナリヨは純和風建築三階建ての神学校で、信長に安土城と同じ瓦(金箔瓦ではない)で葺くよう命じられたことが、ルイス・フロイスの「日本史」に記載されています。跡地の碑はありますが、ここは発掘されているわけではなく、「セミナリヨ跡推定地」であって、本当の場所は明確ではありません。ここを推定地とする理由は、この場所の小字が「大臼(だいうす)(=ゼウス)」(京都地名研究会編 近江の地名 サンライズ出版p.153)であるからですが、隣接地が1986-87年発掘されており、特に関連する遺物は出土しておりません。また、近く(下豊浦北の信号機辺り)に「シウノミザ(主の御座)」という小字の場所があることから、こちらではないかという考え方もあります。

セミナリヨ跡で本日の安土城についての校外学習をすべて終え、解散となりました。午後には雨は止みましたが、午前中の雨模様の中、お疲れさまでした。
次回校外学習は2022年12月13日(彦根城)に予定されています。
文責 岡島 敏広

安土城は、ご存じのように織田信長により築城された城です。

また、安土城は滋賀県により平成元年から発掘調査されており、その前に訪れその時の記憶のある人は様子が大きく変わっているという印象を持っておられるのではないでしょうか?歴史とともに発掘調査の裏話までご存じの先生は、開口一番、「安土城が築城された当時の絵図は一つも残されておらず、安土城築城(1576年)後、100年を過ぎた江戸時代(1687年)に描かれた絵図(近江国蒲生郡安土古城図)が最古です。」とおっしゃいました。したがって、現在、下図にあるような、安土城の各所に名づけられている屋敷地名は江戸時代の絵図に基づいています。

NHK番組「歴史探偵」で示されたVRに基づく南側から見る安土城の風景です。ルイス・フロイスの記録では、上級家臣たちの諸邸宅が手柄に応じて安土山の山腹や山麓部に上部に向かって重なり合うように建てられていたとされています。

まず、最初に訪れたのが、山麓にある「伝羽柴秀吉邸跡」です。そして、「伝羽柴秀吉邸跡は屋敷跡の構造から、羽柴秀吉邸であるはずがない」とお話が始まりました。というのは、「伝羽柴秀吉邸跡」は一等地にあり、上の「大手道周辺」地図のように二段の屋敷の構造となっています。まず、下段の屋敷地を訪れますと、門の礎石があり、写真のように階段を上った後の平坦地には馬屋があったと思われる構造となっています。写真奥にも大きな石垣が見えていますが、この上が屋敷地で、そこには書院があって秀吉よりも格上の人が住んでいたと考えられ、立地及び広さ等もあわせて考えると、これは信長自身の屋敷跡で山裾に御殿を構えていたと考えるのが妥当とのことでした。ここは天主周辺とは異なり焼けていません。ちなみに、秀吉は安土城築城3年前に長浜城主となっていて、普段は住んでいなかったと考えられます。

「大手道」を挟んで「伝羽柴秀吉邸跡」の反対(北)側にあるのが、「伝徳川家康邸跡」ですが、ここには江戸時代末期1854年に焼けた摠見寺の仮本堂が建てられています。写真は「伝徳川家康邸跡」の石垣の隅角部分を写していますが、2つの隅角部分があり、手前は発掘調査後積み直されたもの、奥に見えるのが、元からあった隅角部分です。

下は安土山南斜面にある焼けた摠見寺本堂跡です。この手前を発掘調査すると、深さ1mの所から礎石が見つかっています。信長は安土城の完成前に城に移ってきていますので、先生は天正4年1~2月の城の完成前に住んでいた仮御殿の礎石ではないかと考えておられます。

「伝羽柴秀吉邸跡」「伝徳川家康邸跡」より少し登った地点より「大手道」を見下ろしていますが、ここも本当は大手道ではなく、百々(どど)橋口までの町なかの道が安土城の本当の大手道(登城口までの城下町内の道)で、百々橋口から城へ登る道は登城道と呼ぶのだそうです。その理由は、大手道は城下町内を通ります。しかし、現在いう「大手道」を下りた先から県道2号(朝鮮人街道/下街道)までは堀で、その先は今は干拓されて畑になっていますが、湿地帯が広がっていて人が誰も住んでおらず城下町ではなかったからです。今も人は住んでいません。

直線のいわゆる「大手道」を登って左に曲がった地点から摠見寺仮本堂の方を見ています。木立の間に小さく石の階段が見えていますが、摠見寺住職の墓へと通じる道で、徳川家は摠見寺住職は信長の家系の人を就任させることにしたのだそうです。
この地点辺りから、石段などに石仏を転用している(転用石を用いている)のが見られる所で、観光客により賽銭が供えられたりしています。しかし、信長は美的感覚が厳しく、転用石は目立たない所に用い、石垣などの目立つ所には用いておりません。信長は転用して宗教を弾圧するつもりはなく、逆に安土城内に摠見寺というお寺を建てています。
また、黒金門までの途中に「織田信澄邸址」や「伝森蘭丸邸址」の碑がありましたが、先生によれば、江戸時代の絵図にもなく、県の方で城の中心部に近いから、蘭丸や甥の信澄なら住んでいただろうと想像して、勝手に碑を建てたのだそうです。

先生が黒金門の礎石(オリジナル)の上に立っていますが、左の小さな礎石は黒金門の潜戸の礎石です。ここに大きな黒金門があって、門を奥へと開くと、扉は先生の後ろに迫った階段にぶつかり開けられません。すなわち、この階段は門のことは無視して、後になって取り付けられた階段であることがわかります。城の中心部へ入る黒金門の下辺りから用いられている石材の大きさが大型化しています。石材としては安土山を形づくっている湖東流紋岩が用いられていることから、山から採れる石をそのまま石垣などに利用していることがわかります。

フィリップス・ファン・ウィンゲ(1560-92)によるバチカン宮殿安土城屏風の櫓門部分模写(右側石垣巨石は見せるためのもので、主要門である伝黒鉄門、本丸西門、本丸南門のいずれかの可能性大)

NHK番組「歴史探偵」のVR画像も示します。
左:黒鉄門への枡形虎口入口で先生 右: 黒鉄門
の立っている辺り


ここから三の丸~天主へと行きます。三の丸には織田信雄(のぶかつ)の家系四代の墓所があります。本能寺の変で嫡男の信忠が討ち死にしていることから、織田家の嫡流は次男の信雄の一族であると主張したいのでしょう。

写真は信雄一族の墓所から出て、仏足石方向に向かう角の二の丸石垣の隅角部分で、オリジナルのまま触られていないものです。すでに算木積みの技術が用いられており、小谷城では垂直ですが、信長時代には傾斜して寝てきております。

二の丸、本丸への登り口に仏足石が置かれていました。これも当初は転用石として「仏足」は隠すようにして石垣に用いられていたと考えられます。珍しいので、ここに飾っているのだそうです。

二の丸、本丸への階段ですが、半分だけ石段にされています。元は土部分も含む幅広い階段であったものを、すべては復元していないのだそうです。

階段を上り左に行くと、信長公本廟(二の丸)があります。廟所は秀吉が建てたもので、おそらく信長の御座所(御幸の御間)であったことを考慮して場所が選定されていると思われます。現在、廟の正面の石垣は美しい切り石が隙間なく積まれていますが、この石垣は幕末に摘み直されたものです。
秀吉は主筋の織田家に取って代わり、天下を乗っ取っていますから、ここに信長の廟所を設け、織田家を廟所としての安土城に封印したかったのでしょう。後の豊臣秀次の時には、八幡山城を築き、安土の城下町全体も近江八幡に移しています。
写真は石段正面にある「蛇石」ではないかと考えられている石です。信長公記巻九(天正四年安土御普請)の1万余の人数をかけて三日三晩かかって引き上げたにしては、小さい印象です。他には可能性のある石は見つかっていないことから、中井先生は天主台など(加藤理文先生は信長の御座所の信長公本廟(二の丸)?)の下に埋められているのではないかと考えておられます。
写真の奥の石垣は天主台の石垣で、ここには火がかかっていて、表面が焼けてボロボロとなっています。地面からも焼けた瓦片、木炭になった柱や焼けて赤くなった土が見つかっています。安土城天主を焼いた張本人については、説はありますが、不明です。

本丸跡に来ました。本丸御殿の礎石には焼けた跡があるそうで、先生は礎石の上に立っています。この礎石は武家屋敷と異なり、7尺2寸(約2.18m)の間隔で設置され、天皇の住まいの内裏清涼殿に似て、瓦も見つかっていないので檜皮葺の屋根であったと考えられます。この後の時代に、城の本丸御殿に檜皮葺屋根を用いるのは、安土城が始まりと考えられています。

天主台に上がる階段ですが、ここは建物の内部であったと考えられ、笏谷石が敷き詰められています。雨が降って石の特徴の美しい緑色が確かめられます。この笏谷石は柴田勝家が信長に切石数百を7月11日に進上したと信長公記巻十四に記載されていますので、その切石そのものと考えられます。階段中央は人が通るので、笏谷石が割れています。

この後、有名な天主台に登り、礎石等を確認しました。これらの礎石は本物で貴重であることから、将来は礎石の上に乗ることが出来なくなるかもしれないとおっしゃておりました。安土城の天主の想像図はたくさんありますが、静嘉堂文庫所蔵の「天守指図」に基づいた内藤昌先生の復元案が最も有名です。中井先生は根拠とする文献が同じでも、何故そんなに多様な復元案ができるのだろうと不思議そうにおっしゃっていました。
フィリップス・ファン・ウィンゲ(1560-92)によるバチカン宮殿安土城屏風の天主望楼の模写(部分)を下に示しました。各先生の復元案と整合するかはわかりませんが、模写は五、六階の望楼部のみを表現し、後ろに人らしきものが見えるのは、琵琶湖に浮かぶ船を描いたものと思われます。

信長がこの城を建てることにより、それ以降築城される日本の「城」の概念を打ち立てたと言えるそうです。また、安土城を築城した時には信長は家督を信忠に譲っていたことから、安土城は実用的というよりも金箔瓦を用いたプライベート(趣味的)な城であるとも言えるようです。

南西側にある百々橋口で本当の登城道の入口です。

安土城城下町は六角氏の観音寺城下東山道沿いの石寺にあったものを信長がこちらに移し、八幡山城が築城されてからは、豊臣秀次によって町全体が八幡の方に移されています。
安土城城下町の見学では、本当の大手道沿いにある「新宮大社」に立ち寄りました。ここの茅葺き拝殿は18世紀中頃の建物と考えられており、その中にはご覧のように「竹相撲」の様子が描かれています。信長は相撲が好きで、この絵は、両者互角で、結局相撲の勝敗が付かず、褒美として、信長が一方に「東」、他方に「西」という名字を与えたことを示しています。このうちの「東」さんは現在も安土町内にお住いで、この逸話から、相撲では「ひがし~ぃ、にし~ぃ」と力士を呼び出すのだそうです。ちなみに、「西」さんは転居されています。
ところで、この絵には織田氏家紋の「織田木瓜(もっこう)」が描かれています。 この家紋は、織田氏が越前にいた頃、朝倉氏(家紋は「三つ盛り木瓜」)より妻を迎えた時に与えられたとされています。他方、信長が足利義昭を連れて上洛し、朝倉義景に上洛を求めても従わなかったこと、最終的に、従わなかったことを理由に朝倉氏を滅ぼしたという事実との因縁が伺われます。

大手道を先に進むと、相撲の東さんのお家は、「東家住宅」として前に観光案内の看板が建てられていました。

最後に、セミナリヨ跡が本日のゴールです。安土のセミナリヨは純和風建築三階建ての神学校で、信長に安土城と同じ瓦(金箔瓦ではない)で葺くよう命じられたことが、ルイス・フロイスの「日本史」に記載されています。跡地の碑はありますが、ここは発掘されているわけではなく、「セミナリヨ跡推定地」であって、本当の場所は明確ではありません。ここを推定地とする理由は、この場所の小字が「大臼(だいうす)(=ゼウス)」(京都地名研究会編 近江の地名 サンライズ出版p.153)であるからですが、隣接地が1986-87年発掘されており、特に関連する遺物は出土しておりません。また、近く(下豊浦北の信号機辺り)に「シウノミザ(主の御座)」という小字の場所があることから、こちらではないかという考え方もあります。

セミナリヨ跡で本日の安土城についての校外学習をすべて終え、解散となりました。午後には雨は止みましたが、午前中の雨模様の中、お疲れさまでした。
次回校外学習は2022年12月13日(彦根城)に予定されています。
文責 岡島 敏広
2022年10月27日
2022年10月25日(火) 地域文化学科選択講座「甲賀の城の見方、調べ方」
中井先生によるレイカディア大学地域文化学科選択講座の第2回目の校外学習です。甲賀地域の城は一村一城で非常にたくさんの城があります。本日は甲賀の5つの城をめぐります。
最初に甲南地域市民センター前駐車場に集合し、学生は車に乗り合わせて、まず村雨城に向かい出発しました。
村雨城
この一帯は国史跡となっています。甲賀の郡中惣(ぐんちゅうそう)武士は連合して「甲賀郡中惣」という組織を作り、地域を支配していました。村雨城はその城館の1つで、甲賀武士は近江守護六角氏の主力として活躍しましたが、元亀元年(1570年)に野洲川の戦いで敗北し、信長の配下に入りました。天正13年(1585年)には秀吉による甲賀ゆれによって、中村一氏が水口岡山城主となる一方で、城主は兵農分離により改易となりました。その結果、郡中惣は終焉を迎え、城主が城を放棄し地域に残らなかったことから、伝承が途絶え村雨城主は不明となったと考えられます。しかし、村雨城が寺前城に隣接し、敵対している様子はないことから、それぞれの城主の名字が同じの仲間(同名中)であったと考えられます。


寺前(じぜん)城
寺前城では、先生が向いている東側の土塁がなくなっていますが、これは戦前に崩したという話があることから、四方を土塁で囲まれていたことが分かります。


新宮支城
新宮城に比べ南の「支城」の方が大きいですが、新宮城が先に発見されたことから、こちらは新宮支城と命名されています。「甲賀郡中惣遺跡群」の一つとして谷を挟んで北側に位置する新宮城と並んだ、いわゆる「二城並立型」を形成して、連携して防衛体制を敷いていたと思われます。







水口城本丸の現状: 現在は滋賀県立水口高校のグラウンドになっています。



最初に甲南地域市民センター前駐車場に集合し、学生は車に乗り合わせて、まず村雨城に向かい出発しました。

村雨城
この一帯は国史跡となっています。甲賀の郡中惣(ぐんちゅうそう)武士は連合して「甲賀郡中惣」という組織を作り、地域を支配していました。村雨城はその城館の1つで、甲賀武士は近江守護六角氏の主力として活躍しましたが、元亀元年(1570年)に野洲川の戦いで敗北し、信長の配下に入りました。天正13年(1585年)には秀吉による甲賀ゆれによって、中村一氏が水口岡山城主となる一方で、城主は兵農分離により改易となりました。その結果、郡中惣は終焉を迎え、城主が城を放棄し地域に残らなかったことから、伝承が途絶え村雨城主は不明となったと考えられます。しかし、村雨城が寺前城に隣接し、敵対している様子はないことから、それぞれの城主の名字が同じの仲間(同名中)であったと考えられます。


寺前(じぜん)城
寺前城では、先生が向いている東側の土塁がなくなっていますが、これは戦前に崩したという話があることから、四方を土塁で囲まれていたことが分かります。

先生は城をやっていると、その「面白味にハマってしまう。」とおっしゃって、先人により工夫された城の仕掛けを説明するため、我々を背面の虎口に連れて行ってくださいました。
本来の城道は低く掘り下げて作られており、その突き当りが正式の虎口となっていますが、城道が低いことから、それを通ると、写真に写っている背後の虎口が見えません。背面の虎口から土橋を通り、攻めて来る敵の背後から攻撃出来るような構造になっています。伊予松山城の隠門と同様の発想です。
本来の城道は低く掘り下げて作られており、その突き当りが正式の虎口となっていますが、城道が低いことから、それを通ると、写真に写っている背後の虎口が見えません。背面の虎口から土橋を通り、攻めて来る敵の背後から攻撃出来るような構造になっています。伊予松山城の隠門と同様の発想です。

新宮支城
新宮城に比べ南の「支城」の方が大きいですが、新宮城が先に発見されたことから、こちらは新宮支城と命名されています。「甲賀郡中惣遺跡群」の一つとして谷を挟んで北側に位置する新宮城と並んだ、いわゆる「二城並立型」を形成して、連携して防衛体制を敷いていたと思われます。

新宮支城本丸です。城址の遺構はほぼ完存されており、内側一辺30m、外側一辺50mの方形で、虎口(東側)の方の土塁は低いのですが、写真に写る背面(西側)は高く約8mあります。おそらく、周囲の尾根の高さを考えると、堀切や本丸などを掘り込んだ土を一部積んでいるものと思われます。
この土塁は織田信長の近江侵攻に備えて築かれたものと考えられ、高く分厚い土塁で四周を囲み、両サイドを深い堀切で防御し、新時代の技術も取り入れた甲賀の城のひとつの到達点を示しています。
この土塁は織田信長の近江侵攻に備えて築かれたものと考えられ、高く分厚い土塁で四周を囲み、両サイドを深い堀切で防御し、新時代の技術も取り入れた甲賀の城のひとつの到達点を示しています。

土塁に登り下を見下ろすと、その高さがわかります。

新宮城
方形の本丸の前(東側)に平坦な2つの曲輪を連ね、本丸への進入路を屈曲させて、枡形状虎口を造っています。写真は三の丸から見たL字状に2回屈曲した二の丸の虎口を示しています。
方形の本丸の前(東側)に平坦な2つの曲輪を連ね、本丸への進入路を屈曲させて、枡形状虎口を造っています。写真は三の丸から見たL字状に2回屈曲した二の丸の虎口を示しています。

水口城
水口城は3代将軍徳川家光の上洛時の将軍宿泊用として寛永11年(1634)に築かれたお茶屋と呼ばれる宿館で、幕府直営で小堀遠州政一と中井大和守が作事にあたり、本丸と二の丸の二郭で構成されていました。本丸には京都の二条城を小型にしたような御殿、本丸の四隅には一重櫓が建てられていました。しかし、家光以降将軍の上洛はなく、明治維新後の廃藩置県を経て廃城となりました。明治7年(1874)には公売に付され、御殿は解体され、その玄関は市内の蓮華寺に移築されています。また、廃城後約1世紀の歳月を経て、再評価の声が高まり、昭和47年(1972)に城跡が県指定史跡となりました。
現在の水口城は、外桝形である出丸を利用して、そこに売却され文具店の建物となっていた旧乾櫓の部材が平成3年(1991)再移築され建てられました。本来出丸には番所しかなかったようですが、本来の場所とも姿も異なる存在しなかった二重櫓とした「復興乾櫓」です。水口城資料館として利用されています。
乾櫓の部材は水口城資料館の二階で見ることができます。
水口城は3代将軍徳川家光の上洛時の将軍宿泊用として寛永11年(1634)に築かれたお茶屋と呼ばれる宿館で、幕府直営で小堀遠州政一と中井大和守が作事にあたり、本丸と二の丸の二郭で構成されていました。本丸には京都の二条城を小型にしたような御殿、本丸の四隅には一重櫓が建てられていました。しかし、家光以降将軍の上洛はなく、明治維新後の廃藩置県を経て廃城となりました。明治7年(1874)には公売に付され、御殿は解体され、その玄関は市内の蓮華寺に移築されています。また、廃城後約1世紀の歳月を経て、再評価の声が高まり、昭和47年(1972)に城跡が県指定史跡となりました。

現在の水口城は、外桝形である出丸を利用して、そこに売却され文具店の建物となっていた旧乾櫓の部材が平成3年(1991)再移築され建てられました。本来出丸には番所しかなかったようですが、本来の場所とも姿も異なる存在しなかった二重櫓とした「復興乾櫓」です。水口城資料館として利用されています。
乾櫓の部材は水口城資料館の二階で見ることができます。

水口城ジオラマにあるように、本来は本丸の四隅には一重櫓が建てられていましたし、出丸には櫓がありませんでした。
水口城ジオラマ南側からの風景: 写真の大半は本丸で、杮葺きの本丸御殿が建てられていました。
水口城ジオラマ南側からの風景: 写真の大半は本丸で、杮葺きの本丸御殿が建てられていました。

水口城ジオラマ北東側からの風景: 現水口城入口になっている大手口は写真左で、搦手口は写真右

水口城本丸の現状: 現在は滋賀県立水口高校のグラウンドになっています。

水口城搦手口からの土橋: 土橋を渡って、本丸跡から二の丸跡(左の檜林)に向かって進んでいます。

この檜林になっている部分は二の丸で、水口に入封した加藤明友は、将軍の御殿の本丸に住むのは恐れ多いとこちらの二の丸に御殿を建てました。

乾櫓台: 廃城後は本丸の石垣は売却されて石が取り去られていますが、出丸と写真の乾櫓の石垣は残されています。ただし、写真の乾櫓石垣底部の布積み部分は元の石垣ですが、上部の落とし積となっている所は、取り去られた部分を明治になってから修復したものです。また、石垣の面が綺麗に整っていますが、これは積み上げられた後に、表面をノミではつって整えたもので、ノミの跡が見えます。ここに、水口城資料館の部材を用いた一重櫓が建てられていました。

2022年10月15日
2022年10月13日(木)地域文化学科選択講座「小谷城の見方、調べ方」
レイカディア大学地域文化学科選択講座の校外学習で登る小谷城の地図を下に示します。10:00にふもとの戦国ガイドステーションに集合し、そこから「番所」まで車で登り、「山王丸」まで徒歩で登る予定です。
本日訪問する小谷城の最後の城主は、有名な浅井長政です。
本日は講師の中井先生が城の見方を直々に指導してくださいます。まずは、コースの説明から始まりました。
今、私たちのいる「番所」には「現在地」と示されています。ただ、小谷城各所に付けられた名前は、江戸時代の彦根藩の侍がその当時の常識で名付けたもので、「本当の小谷城の機能」を示しているのかどうかは疑問ということでした。
下図は江戸時代に描かれた彦根藩所有の江陽浅井郡小谷山古城図で、曲輪の命名当時の様子をそのまま表しています。
「番所」へは小谷城への間道が集中し、城の主要部への入口に位置します。
「番所」から少し登ったところに見晴らしの良い場所があり、紅白の旗の間(南西方向)に虎御前山が見えます。小谷城の戦いのときには、小谷城の目と鼻の先のここに織田信長が本陣として砦を作り、にらみ合いました。こんなに近くでは、どんどん砦が構築されたり、敵兵が活動しているのが良く見え、小谷城側の兵は動揺したのではないかと思います。ちなみに、先生は山城では曲輪には内部が見られないように木を残し、切岸の部分は木につかまって登ってくるのを避けるため、木は切ってしまうものであるとおっしゃっていました。赤旗の右(西方向)に見える山は、浅井家重臣の阿閉貞征の籠る山本山城のあった山本山で、小谷城を援護する位置にあります。しかし、阿閉貞征は調略により織田方へ寝返り、それがきっかけで、小谷城が落城しました。小谷山のふもとの田畑の部分は小谷城城下町でした。現在の田畑には小字名がありますが、長浜にも全く同じ小字名の所があり、小谷城落城後に、秀吉により城が長浜城に移されると、この小谷城下町もそのまま移されたことを示しています。
先に進むと「馬洗池」(縄張図では「馬荒池」)があります。先生のお話では「馬が上がれないように山城にしているので、馬はおらず、馬洗池の名はおかしい。」とのことです。
馬洗池~大堀切の縄張図
この池は二段になっていて、石垣の見える上段で雨水を集めて泥などを沈殿させた後、今は藻が生えている手前(下段)の池に上澄みのきれいな水を溜めて飲料水としていたとのことです。これでも以前に比べ水はきれいになっており、昔はイノシシが泥浴びするヌタ場だったそうです。

次は、浅井長政が自刃したと伝えられる「赤尾屋敷跡」に行きました。ここには「浅井長政公自刃之地」と書かれた碑が立てられており、1573年9月1日信長の兵に攻められ、長政は本丸に戻ることができず、ここで自刃したと説明されていました。享年29歳でした。浅井配下の地侍・嶋氏に伝わる『嶋記録』には、『長政ハ アツカヒ(扱)ニテ(=仲裁にて) ノキ給(=退去する) 約束也シカ(=約束であったが)、信長公 高キ所ニアカリ居テ、赤尾美作、浅井石見ヲ 隔テサセ(=引き離して) イケトルヲ 見テ(=生け捕るのを見て)、長政ハ 家へ下リ入、切腹トソ・・・』とその最後が記述されています。
「桜馬場」は馬洗池のすぐ上にあり、南北に長い曲輪ですが、先生は「ここは馬場でない証拠を見せてあげましょう」とおっしゃって、皆を連れて行った場所は、写真のように建物の礎石があり、それがこの曲輪で大きな割合を占めていることから、こんな建物のある所で馬が走れるわけがないとのことです。また、礎石は山から採れる石ではなく、柱を立てるのに都合よい滑らかな河原石を、わざわざふもとから運び上げています。
「桜馬場」から「大広間」への入り口は「黒金門」です。「くろがね」とは鉄を表し、門に鉄板が巻かれていたことを想像させますが、この名前は江戸時代の常識から来たもので、長政の時代は白木であったかもしれないとのことでした。石垣が崩れていますが、秀吉が長浜に移るとき、「浅井氏の時代は終わった」ということを明示するため、「破城」により壊されています。この「黒金門」の左横に徳川宗家16代家達(いえさと)公の揮毫による大きな「小谷城跡之碑」が建てられています。1929(昭和4)年に建てられたものです。徳川宗家には浅井氏の江姫の血が入り関係が深いという気持ちから依頼されたものでしょう。
「大広間」は御殿(城主の私的空間)であったと考えられます。ここからは37,000点の遺物が発掘されており、大半がかわらけ(煤が付いていたらあかり用、なければ使い捨ての酒杯)ですが、陶磁器なども見つかっています。また、建物の礎石や見つかった陶磁器に焼けた跡がないことから、ドラマなどとは違い、小谷落城時、火がかけられていないことは間違いありません。こちらは私的空間であるのに対して、家の応接間に当たる公的空間は、麓にあった「御屋敷」であったと考えれています。
ここ「大広間」で、笏谷石(福井の有名な緑色の石で、朝倉義景より送られたものと思われます)の敷石の破片を見つけました。敷石は御殿の通路に使われていたものでしょう。ノミで成形された跡が残っています。これらの遺物より、ここで、お市の方や万福丸、浅井三姉妹の優雅な生活がなされていたことは間違いないでしょう。
「本丸」(鐘丸)です。本丸と名付けられていますが、本来の機能は鐘丸の名の通り、鐘のすえられた櫓があったと想像されます。
本丸と中丸の間は、山の上側(北側)から大広間(御殿の曲輪)を攻められないよう、大堀切で中丸から切られており、本丸の西側は石垣によるS字状になった虎口、東側は写真のように今では崩れて傾斜が緩くなっていますが、登れない切岸とし、終点は堀切を削り残して行き止まりにしてありました。
「刀洗池」の碑を横に見ながら、「中丸」から「京極丸」に入ります。
「中丸」奥の「刀洗池」も飲料水を溜めていた池と考えられます。

先生が中丸での説明の途中で明の磁器(高価な輸入品)の破片(白と青の破片: 染付)が埋まっているのを見つけられました。
次に「京極丸」に上り、その次は「小丸」です。
「京極丸」は京極円(つぶら)とも呼び、守護の京極氏(京極高清、高延)に用意した曲輪で屋敷があったと説明されていますが、実質はここに幽閉したと考えられます。東側には大きな土塁があります。「京極丸」の中には池のような窪みが見られましたが、ここは未発掘で発掘許可が下りないそうです。おそらく、飲料水用の池か、或いは庭園であったかもしれないとのことです。
「小丸」は「京極丸」と「山王丸」の間にあり、二代城主浅井久政が引退後居住した所で、1573年8月27日に木下藤吉郎(当時)に下の京極丸より攻められ、鶴松太夫の介錯により49歳で自刃しています。
こんな所で気づきましたが、案内板は先生が執筆されているのですね。
「山王丸」虎口: 下の写真は本日の最終目的地の山王丸です。山王丸東面の大石垣も訪問しますが、本日の予定では縄張図の六坊には訪問しません。
ここの最頂部に山王権現(現小谷神社として麓に下りています)が秀吉により祀られたことから、そのように呼ばれています。このようなことから、小谷城落城から長浜城に移るまで、秀吉は小谷城に住んでいたことがわかります。この辺りも長浜城への引っ越し時に行われた破城により石垣が崩されていますが、
先生は「破城の手抜き工事の結果をご覧に入れましょう」と、「山王丸」の東面(西面は浅井領内に面し堅い防御が不要なのに対し、東は外敵に備えている)の大石垣が見られるところに連れて下さいました。上の方の石垣は崩されて足元に落ちていますが、かなりの割合が崩されずに残っています。浅井氏の石垣の特徴は、六角氏と異なり、矢穴のない石垣(割っていない自然石)を野面積みしています。浅井氏の技術で、湖北ではここ小谷城以外に、鎌刃城でも見られます。
最後に、「山王丸」の大石垣と比較できるよう、並べて「本丸」の石垣を下に示します。石の大きさが「本丸」とは言いながらも上の写真の「山王丸」の石に比べて小さく、「本丸」の威信を示すのにはふさわしくないことから、また、鐘丸とも呼ばれていたことも考慮され、先生は本当の本丸は「山王丸」であったと考えておられます。
このあと、これまで上がってきたコースを逆戻りし、本日の校外学習を終えました。お疲れさまでした。
次回校外学習は2022年10月25日(寺前・村雨城跡、新宮・新宮支城跡、水口城跡)に予定されています。 文責 岡島 敏広
追加情報: 別の日(2023年10月31日)に小谷城の遺構が移築されている2寺(長浜市実宰院、米原市福田寺)を訪問しました。
搦手門(裏門)表: 実宰院(じっさいいん)(当時は実西庵)は浅井長政の姉にあたる阿久姫が昌安見久尼と称して出家した庵。寺院は小谷山実宰院と改称され宗派も曹洞宗に改宗し、現在に至っています。秀吉よりの朱印状も伝わります。小谷城落城前夜、浅井長政は姉である昌安見久尼に三姉妹と母お市の方を匿ってもらうよう依頼しました。そして三姉妹とお市の方はともに、城を脱出し実宰院で匿われ、体の大きな昌安見久尼は、追っ手が来たとき法衣で隠して守ったとされています。
小谷山実宰院の門は小谷城の搦手門が移築されて、現在も存在しています。寺の本尊の観音菩薩も小谷城京極丸に安置されていたものです。
搦手門(裏門)裏: 薬医門であることがわかります。
浅井御殿: 浅井長政の次男万寿丸(後の正芸)が住職を務めたと伝わる米原市の福田寺(ふくでんじ)の書院は桁行16.269メートル、梁間12.075メートル、その南側に鞘の間をつけ、東には玄関巾2間が附属しています。内部は、田の字型に8間に区切り、西端の2間は床を一段高くして上段の間となっています。この建物は、小谷城より移築した浅井長政寄進のものと伝えられ「浅井御殿」とよばれています。
本日訪問する小谷城の最後の城主は、有名な浅井長政です。

本日は講師の中井先生が城の見方を直々に指導してくださいます。まずは、コースの説明から始まりました。

今、私たちのいる「番所」には「現在地」と示されています。ただ、小谷城各所に付けられた名前は、江戸時代の彦根藩の侍がその当時の常識で名付けたもので、「本当の小谷城の機能」を示しているのかどうかは疑問ということでした。

下図は江戸時代に描かれた彦根藩所有の江陽浅井郡小谷山古城図で、曲輪の命名当時の様子をそのまま表しています。

「番所」へは小谷城への間道が集中し、城の主要部への入口に位置します。

「番所」から少し登ったところに見晴らしの良い場所があり、紅白の旗の間(南西方向)に虎御前山が見えます。小谷城の戦いのときには、小谷城の目と鼻の先のここに織田信長が本陣として砦を作り、にらみ合いました。こんなに近くでは、どんどん砦が構築されたり、敵兵が活動しているのが良く見え、小谷城側の兵は動揺したのではないかと思います。ちなみに、先生は山城では曲輪には内部が見られないように木を残し、切岸の部分は木につかまって登ってくるのを避けるため、木は切ってしまうものであるとおっしゃっていました。赤旗の右(西方向)に見える山は、浅井家重臣の阿閉貞征の籠る山本山城のあった山本山で、小谷城を援護する位置にあります。しかし、阿閉貞征は調略により織田方へ寝返り、それがきっかけで、小谷城が落城しました。小谷山のふもとの田畑の部分は小谷城城下町でした。現在の田畑には小字名がありますが、長浜にも全く同じ小字名の所があり、小谷城落城後に、秀吉により城が長浜城に移されると、この小谷城下町もそのまま移されたことを示しています。

先に進むと「馬洗池」(縄張図では「馬荒池」)があります。先生のお話では「馬が上がれないように山城にしているので、馬はおらず、馬洗池の名はおかしい。」とのことです。
馬洗池~大堀切の縄張図

この池は二段になっていて、石垣の見える上段で雨水を集めて泥などを沈殿させた後、今は藻が生えている手前(下段)の池に上澄みのきれいな水を溜めて飲料水としていたとのことです。これでも以前に比べ水はきれいになっており、昔はイノシシが泥浴びするヌタ場だったそうです。

次は、浅井長政が自刃したと伝えられる「赤尾屋敷跡」に行きました。ここには「浅井長政公自刃之地」と書かれた碑が立てられており、1573年9月1日信長の兵に攻められ、長政は本丸に戻ることができず、ここで自刃したと説明されていました。享年29歳でした。浅井配下の地侍・嶋氏に伝わる『嶋記録』には、『長政ハ アツカヒ(扱)ニテ(=仲裁にて) ノキ給(=退去する) 約束也シカ(=約束であったが)、信長公 高キ所ニアカリ居テ、赤尾美作、浅井石見ヲ 隔テサセ(=引き離して) イケトルヲ 見テ(=生け捕るのを見て)、長政ハ 家へ下リ入、切腹トソ・・・』とその最後が記述されています。

「桜馬場」は馬洗池のすぐ上にあり、南北に長い曲輪ですが、先生は「ここは馬場でない証拠を見せてあげましょう」とおっしゃって、皆を連れて行った場所は、写真のように建物の礎石があり、それがこの曲輪で大きな割合を占めていることから、こんな建物のある所で馬が走れるわけがないとのことです。また、礎石は山から採れる石ではなく、柱を立てるのに都合よい滑らかな河原石を、わざわざふもとから運び上げています。

「桜馬場」から「大広間」への入り口は「黒金門」です。「くろがね」とは鉄を表し、門に鉄板が巻かれていたことを想像させますが、この名前は江戸時代の常識から来たもので、長政の時代は白木であったかもしれないとのことでした。石垣が崩れていますが、秀吉が長浜に移るとき、「浅井氏の時代は終わった」ということを明示するため、「破城」により壊されています。この「黒金門」の左横に徳川宗家16代家達(いえさと)公の揮毫による大きな「小谷城跡之碑」が建てられています。1929(昭和4)年に建てられたものです。徳川宗家には浅井氏の江姫の血が入り関係が深いという気持ちから依頼されたものでしょう。

「大広間」は御殿(城主の私的空間)であったと考えられます。ここからは37,000点の遺物が発掘されており、大半がかわらけ(煤が付いていたらあかり用、なければ使い捨ての酒杯)ですが、陶磁器なども見つかっています。また、建物の礎石や見つかった陶磁器に焼けた跡がないことから、ドラマなどとは違い、小谷落城時、火がかけられていないことは間違いありません。こちらは私的空間であるのに対して、家の応接間に当たる公的空間は、麓にあった「御屋敷」であったと考えれています。

ここ「大広間」で、笏谷石(福井の有名な緑色の石で、朝倉義景より送られたものと思われます)の敷石の破片を見つけました。敷石は御殿の通路に使われていたものでしょう。ノミで成形された跡が残っています。これらの遺物より、ここで、お市の方や万福丸、浅井三姉妹の優雅な生活がなされていたことは間違いないでしょう。

「本丸」(鐘丸)です。本丸と名付けられていますが、本来の機能は鐘丸の名の通り、鐘のすえられた櫓があったと想像されます。

本丸と中丸の間は、山の上側(北側)から大広間(御殿の曲輪)を攻められないよう、大堀切で中丸から切られており、本丸の西側は石垣によるS字状になった虎口、東側は写真のように今では崩れて傾斜が緩くなっていますが、登れない切岸とし、終点は堀切を削り残して行き止まりにしてありました。

「刀洗池」の碑を横に見ながら、「中丸」から「京極丸」に入ります。

「中丸」奥の「刀洗池」も飲料水を溜めていた池と考えられます。

先生が中丸での説明の途中で明の磁器(高価な輸入品)の破片(白と青の破片: 染付)が埋まっているのを見つけられました。

次に「京極丸」に上り、その次は「小丸」です。
「京極丸」は京極円(つぶら)とも呼び、守護の京極氏(京極高清、高延)に用意した曲輪で屋敷があったと説明されていますが、実質はここに幽閉したと考えられます。東側には大きな土塁があります。「京極丸」の中には池のような窪みが見られましたが、ここは未発掘で発掘許可が下りないそうです。おそらく、飲料水用の池か、或いは庭園であったかもしれないとのことです。
「小丸」は「京極丸」と「山王丸」の間にあり、二代城主浅井久政が引退後居住した所で、1573年8月27日に木下藤吉郎(当時)に下の京極丸より攻められ、鶴松太夫の介錯により49歳で自刃しています。

こんな所で気づきましたが、案内板は先生が執筆されているのですね。

「山王丸」虎口: 下の写真は本日の最終目的地の山王丸です。山王丸東面の大石垣も訪問しますが、本日の予定では縄張図の六坊には訪問しません。

ここの最頂部に山王権現(現小谷神社として麓に下りています)が秀吉により祀られたことから、そのように呼ばれています。このようなことから、小谷城落城から長浜城に移るまで、秀吉は小谷城に住んでいたことがわかります。この辺りも長浜城への引っ越し時に行われた破城により石垣が崩されていますが、

先生は「破城の手抜き工事の結果をご覧に入れましょう」と、「山王丸」の東面(西面は浅井領内に面し堅い防御が不要なのに対し、東は外敵に備えている)の大石垣が見られるところに連れて下さいました。上の方の石垣は崩されて足元に落ちていますが、かなりの割合が崩されずに残っています。浅井氏の石垣の特徴は、六角氏と異なり、矢穴のない石垣(割っていない自然石)を野面積みしています。浅井氏の技術で、湖北ではここ小谷城以外に、鎌刃城でも見られます。

最後に、「山王丸」の大石垣と比較できるよう、並べて「本丸」の石垣を下に示します。石の大きさが「本丸」とは言いながらも上の写真の「山王丸」の石に比べて小さく、「本丸」の威信を示すのにはふさわしくないことから、また、鐘丸とも呼ばれていたことも考慮され、先生は本当の本丸は「山王丸」であったと考えておられます。

このあと、これまで上がってきたコースを逆戻りし、本日の校外学習を終えました。お疲れさまでした。
次回校外学習は2022年10月25日(寺前・村雨城跡、新宮・新宮支城跡、水口城跡)に予定されています。 文責 岡島 敏広
追加情報: 別の日(2023年10月31日)に小谷城の遺構が移築されている2寺(長浜市実宰院、米原市福田寺)を訪問しました。
搦手門(裏門)表: 実宰院(じっさいいん)(当時は実西庵)は浅井長政の姉にあたる阿久姫が昌安見久尼と称して出家した庵。寺院は小谷山実宰院と改称され宗派も曹洞宗に改宗し、現在に至っています。秀吉よりの朱印状も伝わります。小谷城落城前夜、浅井長政は姉である昌安見久尼に三姉妹と母お市の方を匿ってもらうよう依頼しました。そして三姉妹とお市の方はともに、城を脱出し実宰院で匿われ、体の大きな昌安見久尼は、追っ手が来たとき法衣で隠して守ったとされています。

小谷山実宰院の門は小谷城の搦手門が移築されて、現在も存在しています。寺の本尊の観音菩薩も小谷城京極丸に安置されていたものです。

搦手門(裏門)裏: 薬医門であることがわかります。

浅井御殿: 浅井長政の次男万寿丸(後の正芸)が住職を務めたと伝わる米原市の福田寺(ふくでんじ)の書院は桁行16.269メートル、梁間12.075メートル、その南側に鞘の間をつけ、東には玄関巾2間が附属しています。内部は、田の字型に8間に区切り、西端の2間は床を一段高くして上段の間となっています。この建物は、小谷城より移築した浅井長政寄進のものと伝えられ「浅井御殿」とよばれています。
