2025年3月3日平松(高木)陣屋跡訪問(湖南市平松)

joukaku

2025年03月10日 06:15

JRふれあいハイキング「東海道のひな人形と北島酒造を訪ねて」が開催されました。これに参加し、途中で旧東海道沿いの平松(高木)陣屋跡を訪問したことから、この機会に平松陣屋について調べてみました。
主客転倒になりますが、平松陣屋の説明の後に、ふれあいハイキングで巡った地点とひな人形について軽くご説明します。

平松陣屋は、湖南市の平松集落の奉行を務めた清和源氏の後裔旗本 高木伊勢守(5000石)の陣屋です。
下の絵は陣屋跡に掲載されていた説明板に描かれた図です。

高木氏の苗字の地は三河国碧海郡高木村といわれます。
系図などによれば、源頼親の七世の孫蔵人判官代信光がはじめて高木村に住んで高木氏を称したといわれます。その子孫が分かれて尾張国及び三河国に居住しておりました。以下の系図の守勝の頃から平松の地を治めるようになっています。

 高木清秀(-1610)―伊勢守守次(-1609)―守久(1599-1679)
守勝(-1699)―守興(-1736)―守明(-1749)―守節(-1768)
―守富(1763-1834)―守影―守雄―守庸―守典―守鉎

高木伊勢守守次が関ヶ原の合戦で手柄をたて1000石(武蔵国荏原郡)を賜り、その子大目付 高木伊勢守守久に至り、山城国綴喜、相楽の1000石を加増されています。
次いで、守勝勘定奉行となり、元禄11年(1698)近江国野洲、甲賀及び栗太において4000石を賜わり、元禄12年(1699)に三雲村平松の地を領するようになりました。
その後、高木伊勢守は天保5年(1834)まで平松に在住して徳川幕府に仕え、家斉将軍時代(1787 -1837)には大番頭(おおばんがしら)を勤め旗本5000石の禄を食み、宏壮な2階建ての平松(高木)陣屋が文化年間(1804-17)に建てられました。

武鑑に記載された高木伊勢守

しかし、高木氏は旗本であったので江戸麻布にも屋敷を持ち、ほとんど江戸詰めであったことから平松の陣屋には代官を置いて、この地を治めさせていました。
文化文政年間(1804-1829)には、奥村俊之右衛門(亜渓)が代官を勤め、奥村亜渓とその妻(志宇)が俳人夫妻として美松(うつくしまつ)自生地の保護と美松を世に紹介しました。

幕末に至り、京都が戦乱の巷となったとき、高木守典は「高木伊勢守」の名で皇居御守護として2年間仕えました。その後、廃藩置県の際、明治2年(1869)江戸から陣屋のあった平松へと帰っています。当時、守典は父守庸と一族を江戸に置いていました。ところで、守典は平松在住の際、甲賀市甲賀町五反田の余野を開墾し、このときに家財のほとんどを失ったといわれています。後の明治23年(1890) 東京麻布に転籍しています。平松陣屋は、明治維新後、個人の所有となり建物が取り払われました。
高木氏の菩提所は甲西町平松の南照寺であり、また、歴代の代官の墓碑もここに残っております。

平松陣屋の区域: 陣屋の区域は下図の情報に基づいて説明を記載しております。下図をクリックすると、文化財検索のオリジナル情報にリンクします。

平松陣屋跡: 大字平松の旧東海道筋の南側に、上述のように清和源氏の後裔旗本(5000石)高木伊勢守の陣屋がありました。その平松陣屋は文化年間(1804-1817)に建てられたもので、宏壮な2階建てでした。明治維新後(明治20年(1887)ごろ)個人の所有となり建物が取り払われ、その一部(長屋門?)が水口町に移築されました。

平松陣屋跡に建つ個人住宅: 上の文化財検索の結果によると、「高木陣屋」の敷地は、説明板が立てられている個人宅だけでなく、ここが陣屋の東端のようで、写真の右(西)側の数軒も含めた広大な区域が、平松陣屋の敷地であったようです。

平松陣屋跡に立つ説明板

写真は上の個人宅の隣宅の塀ですが、こちらの民家とさらに向こう(西側)も陣屋の敷地であったようです。

平松陣屋長屋門: 下写真は移築された平松陣屋長屋門の実物です。陣屋の門は、昭和23年(1948)になり専売公社水口出張所の所有となっていたものを、写真のように昭和39年(1964)8月に三雲ドライブインの地域内に移され、レストランの門として用いられていました。ただし、この門は昔のままの形でなく「物見の出格子」の部分が欠けています(甲西町誌昭和49年)。
2020年のレストラン閉店に伴い、惜しまれながら長屋門は解体撤去されました。現在はドラッグストアとなっています。

県道4号線沿いのスエヒロ近江店(閉店)の入口(三雲ドライブイン)

ここで、上記、藩主説明で登場する高木氏の人物について解説を追記します。
大目付 高木伊勢守守久は、万治2年(1659)7月に5街道の道路・橋梁の管理など交通業務を統轄する初代道中奉行に任命され、大目付と兼帯することで、このとき道中奉行が創設されています。
平松の高木氏は河内丹南(大阪府松原市)の高木肥前守家の分家です。高木肥前守家12代目の正垣に継子がなかったため平松の高木家から高木松山(高木守庸)の二男高木正善が明治2年(1869)に丹南の高木家を承継し、明治17年(1884)に子爵を授けられています。正善の孫娘百合子は、後、三笠宮妃となられた人です。


ここから、本来のJRふれあいハイキング「東海道のひな人形と北島酒造を訪ねて」で巡った地点につきご説明します。このハイキングの総歩行歩数は15000歩でした。

JR三雲駅をスタートし、最初に立志(りゅうし)神社を訪問しました。
立志神社は天地開闢の際に最初に現れ、地上世界の土台を生成した神様である国之常立神(くにのとこたちのかみ)を祀る神社です。大和時代の欽明天皇が飢饉に苦しむ民を救うため五穀豊穣のお祈りをするため勅使が送られたといわれる古くに創建された神社で、明治時代は龍神社、江戸時代は龍樹神社と呼ばれていたようです。

立志神社花手水: 神社を訪問すると、最初に美しく花で飾られた花手水(はなちょうず)が出迎えてくれます。花手水が美しい神社としても知られています。

立志神社本殿: 国之常立神が祀られた本殿です。その他、境内西側にはたくさんの神様の社が集まっており、その境内西側の杜には遺跡もあって、非常に古い瓦(瓦製造時代を考慮すると寺院の?)が発見されています。さらに、立志神社は美しい御朱印をいただける神社としても知られています。

この後、雛人形の飾られた会場を巡って行きます。この時期、滋賀県の各地では雛人形が飾られ公開されています。本ブログでも取り上げており、日野町での雛人形の飾り付けの様子はこちらでご覧いただけます。

三雲会場(三雲まちづくりセンター): センター座敷に雛人形がいくつも飾られていましたが、その中で最も古い人形(明治時代)を撮影しました。

針会場(北島酒造)(飾り付け全景): 北島酒造は江戸時代の文化2年(1805)に創業しており、歴史ある酒蔵ですので、古くからの雛人形もお持ちだと思われます。

北島酒造: 製作時代はわかりませんが、飾られていた人形のうちでも立派な内裏雛を大きく撮影しました。

柑子袋会場(柑子袋まちづくりセンター): センターのホールにたくさん飾られていた雛人形のうち、御殿飾り雛人形が最も古いもの(大正時代)でした。

以上、本日は、東海道のひな人形を見て回りましたが、最後に東海道沿いにある平松(高木)陣屋に立ち寄り、ゴールのJR甲西駅に行き解散となりました。
お疲れさまでした。
                            文責 岡島 敏広


関連記事