JR西日本ふれあいハイキング「近江谷城跡と近江菩提寺城跡を訪ねる」(湖南市)が開催されました。参加者は事前予約による56名で、参加者は3班に分かれ、
良弁僧正の建立した
廃少菩提寺と湖南市(野洲川北側)の主な2つの城跡を訪問しました。
良弁(湖南市 西應寺蔵)
別途、JR西日本ふれあいハイキングでは湖南市の別の城郭も訪問しておりますが、その模様は
こちらでご覧ください。
集合場所のJR石部駅で、湖南市観光協会で参加者の受付を行った後、以下のコースに従い、野洲川の北岸にある城跡を中心に訪問し、歩行歩数は15,000歩でした。
JR石部駅→石部頭首工→廃少菩提寺→和田神社→近江谷城跡
→西應寺→青木館跡→近江菩提寺城跡→JR石部駅
石部頭首工: 頭首工とは河川から農業用水を用水路に引き入れるため、河川をせき止めて水位を上昇させ、水路へ水を流し込む施設で、用水路の頭の部分にあたることからこの名前が付けられました。石部頭首工は湖南地域の農地に野洲川からかんがい用水を供給するためのものです。
旧頭首工は、昭和29年(1962)に完成しましたが、その後の地域開発の進行等に伴う洪水流出量の増大に対応するため、現頭首工が平成11年から平成18年度にかけて、旧頭首工の下流約100mの地点に、洪水流下能力を高め建設されました。手前の石垣は、両岸に作られた魚道の1つです。
頭首工上方からみたゴム引布製起伏堰(通称ゴム堰): 写真の上下に伸びるグレーの風船風のものがゴム堰で、右側の茶色い水が野洲川上流側、左側が下流で川を堰き止めています。
現頭首工では、洪水吐部分の堰に空気を注入した日本で最大級のゴム堰を採用するとともに、アユなどの遡上する魚のための魚道を1連から3連にするなど、自然環境に配慮した方式が最新の技術で採用されています。
頭首工の上を通って野洲川を北側に渡り、ここからは本日のメインの遺跡及び城郭跡の訪問です。
比叡山を筆頭に滋賀県には「織田信長に焼かれた」といわれる寺院が多いのですが、今回訪問する廃寺は異なり、織田信長の近江侵攻時、信長側に味方した結果、六角氏による返り討ちに合って廃絶した
廃少菩提寺の遺跡を訪問します。
37坊を有する大寺院であったといわれる廃少菩提寺の遺跡として、以下の3つの石造文化財(①~③)が残されております。これらはまとめて
国指定史跡として登録されています。
①血噴き地蔵(石造閻魔像): 甲西町教育委員会編 甲西町文化財保護審議会編「甲西の民話」甲西町(滋賀県)甲西町教育委出版(1980)に「二つにわれたえんまさん」として、この石像が割られたエピソードが記載されています。
江戸時代にうつ伏せに倒れていた石を石屋さんが良い石だと思って割ったところ、帰ってから肩が痛くなり、石から血が流れている夢を見たそうです。翌朝早くに石をひっくり返したところ、この閻魔像が彫られていたとの言い伝えがあります。割れた石の右側は別の石で修復されています。
石像下段(閻魔像下)の地蔵(右)と僧形(左)の間の中央には「淨西院秀阿弥陀仏行大徳宗舜 敬白」と彫られています。裏には「延長二年甲申(きのえさる)」(924年)と彫られていたそうですが、今は風化し読めません。
②三体地蔵: これらの三体の地蔵は同時期に作られたものではなく、それらの様式から中央が鎌倉初期、両側二体が南北朝期とされ、制作時期に差があります。
③石造多宝塔: 多宝塔は密教(天台宗、真言宗)寺院に特有の施設で、この多宝塔は土中に埋もれていたようです。掘り起こされて、現在は新しく造られた石垣の基壇の上に設置されています。写真は麓側から山に向かって撮影したもので、正面(山側にあります)ではなく裏側に当たります。
この多宝塔には銘が彫られており、表側には願主名、建立日「仁治二年(1241)辛丑(かのとうし)七月日」、施主名が、裏側には寄進者名が記載されています。
木造多宝塔は国宝の石山寺のものが最古で有名ですが、石造多宝塔は全国に11基しかなく、そのうち銘のあるものは廃少菩提寺のものを含めて3基のみです。
近江谷城 縄張(滋賀県中世城郭分布調査2(甲賀の城) (1984)より): 廃少菩提寺より菩提寺集落内を東に少し歩き、少菩提寺の裏鬼門封じの神社であった和田神社(当初の鎮座位置からは移転して現在の位置は裏鬼門ではなくなっています)への参道の階段を登って行きます。参道の途中で右に折れると和田神社に隣接して谷城下城跡があります。
谷城は戦国時代の城郭の通例どおり、上城(詰め城としての山城)・下城(山麓居館)の2つに別れています。上城跡は、和田神社境内の西方の登り口から、上城・下城間を断ち切るように掘られた本殿裏の大堀切に沿うように通る登山道から登りますが、本日は訪問しません。
谷口藤兵衛が応仁2年(1468)に岩根村より谷村に移り、この谷城を築城。地名に基づいて、姓を谷口氏より谷氏に改姓します。永正・大永年間(1504-1527)には六角氏の近習である谷武兵衛兼修が居城していたと伝えられています(甲賀郡誌)。谷氏は元亀元年(1570)織田信長による近江侵攻時には、信長に下り領地は安堵されます。しかし、その後秀吉が天下を取ると、秀吉により甲賀での支配権をはく奪され(「
甲賀ゆれ」)、甲賀地域は秀吉の家臣で
水口岡山城主の
中村一氏の支配地となりました。
谷城縄張図はクリックにより拡大します。
近江谷城 石垣から喰違い虎口へ: 和田神社参道途中を右に折れ、和田神社の石垣に沿って進むと石の積み方が途中でより古い様式(中央写真)に変化します。石垣がなくなると谷城跡の虎口(入口)ですが、城内が見えないように喰違い虎口(右写真)になっています。
近江谷城 下城曲輪土塁: 虎口より内部に入ると土塁に囲まれた曲輪になっています。曲輪は少しいびつですが、甲賀の城に典型的な「土塁で造られた方形城郭」です。土塁の向こうは急斜面で、攻め手は容易に登ってこれないようになっています。
近江谷城 下城の竪堀: 曲輪の南東斜面には竪堀が掘られ、攻め手が斜面途中で横移動できないようになっています。
近江谷城 下城井戸: 居館のあった曲輪の北側には、写真のように井戸が残されており、現在も水をたたえています。
青木館と菩提寺城(滋賀県中世城郭分布調査2(甲賀の城) (1984)より):
次に、谷城の東にある青木館跡と菩提寺城跡を訪問しました。
図はクリックにより拡大します。
青木館詳細図: 谷城跡訪問後、集落内をさらに東に進み、県道22号線に近づくと青色の矢印の通り進みました。図の④~⑦の地点からの風景を以下に写真で示します。
青木館跡は丘の頂に位置していましたが、敷地中央が名神高速道路の工事用道路の用地(赤色破線で示す)として提供されて、館の敷地西側部分は道路のレベルにまで削られ整地されています(写真は国土地理院航空より。クリックすると拡大します。)。
その後、工事用道路は県道22号線(竜王石部線)に昇格し、さらに、館跡北側の菩提寺新町(菩提寺東2~3丁目と菩提寺西3丁目)が造成されたときには、館跡部分外ですが県道は菩提寺新町を通るよう経路を変えて地域住民に利用されています。
④青木館跡南西角部分(東方向/県道22号線を見る): 左の木の生えている側(北側)が削平された青木館跡地です。
⑤青木館跡中央部を貫通する道路(県道22号線、北方向): 貫通する県道22号線は青木館詳細図に赤色の破線で示しています。右のブロック塀の上(館跡東側)と左の道路の向こう側(館跡西側)も青木館跡地です。
⑥青木館跡南東角部分(西方向/県道22号線を見る): 右の石垣(石垣は後のもの)のある小高い部分(北側)が青木館跡地です。
⑦青木館跡北東角部分に沿って流れる水路(西方向/県道22号線を見る): 今回のハイキングでは訪問しませんでしたが、
八王子神社の南側で館跡の北端に相当する位置です。館跡の北側は堀と湿田で防御され、特に北東隅の水田(下の写真の側)は「底なし」(の田)と呼ばれていましたが、道路工事の際、危険防止のため、埋め立てられました。
菩提寺城詳細図: 菩提寺城は青木筑後守により長享(ちょうきょう)年間(1487~1489)に築かれました。谷城築城の20年後になります。
青木氏は元亀元年(1570)織田信長による近江侵攻時には、
六角義賢と運命を共にしました(
信長公記巻3、元亀元年10月)が、その後、信長に服属し領地は安堵されます。
信長公記の記述引用
「江南表の儀、 佐々木左京大夫承禎(六角義賢) 父子、甲賀口 三雲居城
菩提寺という城まで罷り出でられ侯へども、人数これなく侯て、手合せの体ならず侯。」(六角承禎父子が「菩提寺という城」まで出てきたが、人数が少なく手合わせにならなかった。)
しかし、秀吉が天下を取ると、天正13年(1585)、秀吉により甲賀での支配権ははく奪され(「
甲賀ゆれ」)、甲賀地域は秀吉の家臣で
水口岡山城の
中村一氏の支配地となって菩提寺城は廃城となりました。
江戸時代に入り、元禄11年(1698)に旗本内藤十治良(じゅうじろう)5,000石の領地となり、その陣屋は城跡の隣接地に構えられたことから、城跡自身はどのように利用されたかはわかっていません。
下図は昭和初めの城跡の土地利用図です。
菩提寺城跡南側(高台麓から): 菩提寺城は高台に建てられていたことがわかります。
菩提寺城跡に建つ保育園: 残念ながら、菩提寺城は廃城となり、秀吉以降は利用するのに便利な地形であったことから、分かっているだけでも、過去には小学校や公民館、現在は保育園用地として利用され、城郭の遺構は何も残されておりません。
以上、本日は、湖南市の野洲川北岸にある廃少菩提寺と2つの城跡+館跡を巡りました。菩提寺城跡訪問を済ませた後、野洲川の南岸まで
中郡橋を渡り、JR石部駅に戻って解散となりました。 お疲れさまでした。
文責 岡島 敏広