JR西日本ふれあいハイキング(湖南市)で「いにしえの古城と天然記念物ウツクシマツ-阿星山(あぼしやま)の尾根に築かれた一村一城-」が開催されました。参加者は82名で、参加者は4班に分かれて、湖南市の3つの城址、小島本陣及びウツクシマツの生える美松山を訪問しました。別途、湖南市の別の城郭を訪問しておりますが、その模様は
こちらでご覧ください。
集合場所のJR石部駅で、湖南市観光協会で参加者の受付を行います。
出発時間まで石部駅前公園で待ちました。
石部駅出発後、旧東海道を歩き甲西駅に向かいますが、途中、石部宿の小島本陣跡→石部城址→丸岡城址・東丸岡城址→ウツクシマツ自生地(美松山)→平松城址の順に巡ります。
まず、計画に従い最初に石部宿の
小島本陣跡を訪問しました。現在は本陣の施設は残されておらず、石碑と本陣跡を示す説明版がたてられているだけです。この小島本陣の斜め向かいには
三大寺本陣跡と説明板もありましたが、現在は、建物は建て替えられ、その説明版も近くの交差点に移設されています。
小島本陣の古写真が残されていますので、それも示します。
次に、城址として石部城址(善隆寺)を訪問しました。
石部城
現在は、県道113号線に面した
善隆寺(浄土宗)の境内となっている城址です。昭和30年代までは善隆寺と裏の石部小学校の間はV字状に深く切れ込んでいて、西・北・東の三方が急傾斜となっていました。この善隆寺のある丘陵地は字東谷、通称「とのしろ」とも呼ばれています。写真は県道113号線から見える山門です。地図の方はクリックにより拡大します。
寺の中に入ると、写真の本堂の裏は墓地となっており、寺自体が一段高い丘の上に建てられていること以外、石部城の痕跡は見受けられませんでした。
後に述べますように石部城廃城後の荒地に、廃城後100年程度経過後、善隆寺が移転してきて、城址は寺に利用されながら450年ほどの時が経過していますので、石部城の遺構が残っていないのは仕方ないのかもしれません。
石部城は、貞応元年(1222)、石部久綱(佐々木石部三郎左衛門)が承久の乱(1221)で戦功を挙げ、石部の庄の地頭職に補任されて館を築いたのが始まりです。また、文明年間(1469~1487)には、三雲氏によって山城が築かれましたが、本格的な戦闘用の城塁ではなく(『石部町史』)住居としての機能を持っていたと伝えられています。長享元年(1487)には近江守護・六角高頼が将軍・足利義尚に攻められた際にここに逃げこんでいます(下図、鈎の陣)。
享禄年間(1528~1532)には三雲氏に替わり、石部郷を支配してきた甲賀武士の青木氏(筑後守秀正)や、甲賀五十三家の一族で青木氏を名乗る石部氏(右馬允家長父子)などが居城していました(『日本城郭大系』)。
永禄11年(1568)、六角承禎・義治父子も足利義昭を擁した織田信長の上洛の阻止を試み、逆に織田信長の包囲攻撃を受けて観音寺城を脱出、甲賀の土豪望月氏の協力により、この石部城に逃れています。
しかし、織田武将佐久間信盛に付城(
多喜山城)を築かれ、城の周囲に封柵を設置して包囲され、天正元年(1573)9 月から翌2 年(1574)4 月まで籠城した後、ついに力尽きて信楽へと落ち、廃城となっています。
また、貞享元年(1684)、城址の北側東海道の近くにあった石部氏の菩提寺善隆寺を石部の町場の火災の危険から守るため、荒地となっていた石部城跡地を膳所藩主本多氏から拝領し、そこに移転、現在の善隆寺となっています。
鈎の陣及び信長方、対六角方の城 『湖国と文化
153,18-20,(2015)』
丸岡城・東丸岡城: 縄張図(甲賀郡志掲載の
丸岡城)
両城址は、柑子袋集落南側の丘陵に築かれています。墓地の北側が丸岡城、その東側が東丸岡城です。
丸岡城は、墓地(下の地図「丸岡城」と書いてある辺り)によって南側が削減していますが、一城別郭の形式で大将の入る本城(本郭)の丸岡城に、部隊を収容する駐屯地である東丸岡城が併設された形となっています。
築城は古いですが、六角氏が観音寺城から追われ、上で訪問した石部城落城前に、六角氏が信長に対峙するために再整備された支城網の1つです。
丸岡城・東丸岡城を含む支城網は、六角氏が伊賀
音羽氏城或いは甲賀から北進し、
野洲河原の戦い(落窪合戦)や
三宅・金森籠城戦の前線への進撃に利用されました(『湖国と文化
153,18-20,(2015)』)。
丸岡城は土塁に囲まれた方形郭の内部の複雑な仕切り方が、この城の特徴と言えます。
墓地より丸岡城の南東の隅から入って行くと、墓地から三重の横堀が残り、写真のように土塁を繋ぐ土橋(写真左右の土塁を接続)も確認できます(西を向いて撮影、写真左の南側には墓地が見えます)。
土塁から主郭に下りて、木は生えていますが、平坦地であることを確認しました。
また、北側の土塁にまでゆき、切岸となっている斜面を確認しました。
城の東に向かい虎口を通り、
虎口から出て、城の東側を通る舗装道路に出ました。
ここは後世の破壊口とも言われ、正規の虎口はこの虎口から道に出る前の平場(土塁の向こう側)を北(右)に向かった所のようです。
本城である丸岡城の縄張りは、甲賀の城郭に多く見られる方形の縄張りですが、主郭は分厚い土塁に囲まれています。城を出るのに通ってきた東側の虎口から3m程の深さの堀底道を経て主郭に至る縄張りは、甲賀の他の城では例を見ない複雑な縄張りです。甲賀の城の中でも見応えのある城と言えます。建久年間(1190~98)に甲賀五十三家のひとつ青木藤兵衛頼忠が築きました。別名養林寺城といわれます(『甲賀郡志』,『甲西町教育委員会 甲西町内遺跡詳細分布調査報告書1990.3』)。
東丸岡城は、山道を挟んだ僅か50m程の場所に位置し、暦応年間(1338~41)の頃に青木頼秋が拠点とした城で出城(部隊を収容する駐屯地)として築かれたものと考えられます。自然地形に逆らわず、50m四方のゆがんだ方形の小振りな城ですが、高い土塁で囲まれた堅牢な構造になっています。1585年頃に丸岡城とともに取り壊されました。
東丸岡城址西側平虎口: 西側に加え北側にも確認できる平虎口と土橋は後年の改修と思われます。写真左に写る土塁は南側土塁の一端
東丸岡城址南側土塁: 写真右側に南側の高い土塁の一端が見えていますが、奥へと伸び、写真左端にまで写っています。
この後、丸岡城・東丸岡城を離れ、歴史の小径を通って、
ウツクシマツ自生地を訪問しました。アカマツの一種で写真のように地面からすぐに枝分かれして(一つ下のシンボルツリーがわかりやすい)、特に剪定などしなくても自然に美しい形のまま生長する珍しい松です。写真中の小さく丸くまとまっている木はウツクシマツの若木です。このウツクシマツはここ以外には日本のどこにも自生しておらず、天然記念物となっています。
下の写真はウツクシマツのシンボルツリーですが、最近枯死してしまいました。それがきっかけとなり、現在は保護活動が活発化しています。
ウツクシマツの自生地は東海道から少し外れたこの場所にあることは昔から知られており、下のように浮世絵にも描かれています。
ウツクシマツ自生地の見学の後は、再度、城址の訪問となります。
平松城(宮島城)
平松城の位置を以下の地図に示します。城の遺構は竹藪に覆われ、竹藪の部分と考えられています。地図はクリックにより拡大します。
竹藪の北側に平松城の解説の看板がありますが、
東側(手前側)から裏に回り込んでも、竹藪であることには変わりなく、目にみえるような遺構はありませんでした。
平松城(宮島城)は宮島氏代々の居城です。室町時代、宮島掃部介(かもんのすけ)宗久による築城と考えられていますが、遺構らしきものは上記のように歩いて回ってもありません。
宮島氏は甲賀五十三家のひとつに数えられる一族で、室町時代中期に平松の地に移りました。宮島氏は大伴姓で、九代大伴善平は、平松太郎と号し甲賀太郎と称しました。大原氏、上野氏など三河から甲賀に移住した富永一党は、この大伴姓宮島氏を頼り甲賀へ移りました。頼男、善頼、善平、武清と代々続き、寛正~応仁年間(1490~1469)中務尉、兵庫允は大慈院領の下司を務めています。
西照寺の西側にある薮内が城域とされ「里屋敷」の字名が残っています。
なお、伊賀上野城主 藤堂高虎も宮島氏の出身です。
本日は、旧東海道散策により、小島本陣とウツクシマツの見学に加えて、湖南市の3つの城址を見学を終えました。このあとJR甲西駅に向かい、解散となりました。お疲れさまでした。
文責 岡島 敏広