2024年2月18日(日)「近江の城郭~徳川家康と近江の城」永原御殿参加

joukaku

2024年02月21日 15:11

滋賀県主催の「近江の城」魅力発信事業・連続講座「近江の城郭~徳川家康と近江の城」第2回「永原御殿跡」に参加しました。
なお、今回の講座のメインとなる永原御殿には2022年12月にも訪問しております。

織田信長が整備した下街道は、後に徳川家康が関ケ原の合戦に勝利した際、家康が京都へと凱旋する上洛道として使われ、さらに江戸時代には朝鮮通信使により朝鮮人街道として、最後に現在はこの一部が県道2号として使われています。
今回の講座では、この道を辿る形で家康が築城した永原御殿跡と、野洲出身の妓王(祇王)にまつわる主な歴史的観光スポットを巡りました。

本日のコースは、以下の通りです。

JR野洲駅北口→亀塚古墳→菅原神社→永原御殿跡→妓王寺→妓王館跡→浄専寺(永原御殿移築門)→朝鮮人街道→祇王井川→JR野洲駅北口

Googleマップにより本日のコースを描きました。

野洲駅北口に集合し、本日のコースの説明を聞いて出発です。

亀塚古墳冨波(とば)古墳
最初に訪れた写真の亀塚古墳は、大岩山丘陵の北西に広がる自然堤防上に築造され、周辺には古冨波山古墳や冨波古墳(墳丘部分は削られ残存しない前方後方墳)が所在しています。
江戸時代には、後円部の墳丘が亀に似た形から、字名に亀塚の名前がうまれました。古くから土取り場となっていたことから、後円部の墳丘はあまり残存していませんでした。周濠部分は水田となっていますが、幅9m近くと想定できます。試掘調査の結果、古墳の形状・埴輪の時期・須恵器から、古墳時代後期初頭の5世紀後葉~末頃に造られたと考えられます。

菅原(すがはら)神社
創祀は不詳。菅原天神とも呼ばれるこの神社には、学問の神様"菅原道真公"がまつられています。室町時代には、連歌や和歌の会が盛んに行なわれ、藤原定家宗祇といった名高い歌人が訪れました。その中には、北村季吟の姿もあったと伝えられます。
社記によると、永原御殿の北に位置する土安(てやす)神社(菅原神社の風地境内社、明応7年(1498)小堤城主永原越前守源重秀の再建)とともに永原御殿守護の社とされ、慶安2年、先例に従って徳川家光公から八石余の朱印地を寄附されています。なお、この朱印は、明治維新には逓減禄に改められました。
明治以降、菅原・土安両社は、当時の江辺庄永原村、北村、中北村三ヶ村の村社となりました。また、上記のように永原重秀が御神像の腐蝕することを恐れ、新しい御神躰を奉製し、当社遷座の日を例祭日(四月第二の午の日)と定めて神輿の渡御が行われるに至っています。

永原御殿(ながはらごてん)
本日のメインスポットである永原御殿です。永原御殿は朝鮮人街道から西に少し外れた現在の野洲市永原にあります。慶長6年(1601)から寛永11年(1634)までの間、将軍である徳川家康(7回)、秀忠(3回)、家光(2回)が上洛する際に宿泊や休息するため、計12回利用しました。これは、御茶屋(おちゃや)御殿と呼ばれる施設で、全国的な宿駅制度が整備される以前の江戸時代初期には各地に設けられました。近江には中山道に柏原(かしわばら)御殿(絵図)、朝鮮人街道に永原御殿と伊庭(いば)御殿、東海道に水口御殿(水口城)の4カ所が造営されています。

徳川将軍上洛の際の休泊所でしたが、現在の永原御殿跡は、石垣と堀や地割の一部が残るだけで、往時の姿をうかがい知ることはできません。
文書史料によると当初から周囲に堀を設け、本丸と二の丸を備えた城郭として造営されたことが分かります。これは、宿泊だけでなく、有事には軍事施設となる役割を担っていたためと考えられます。
永原御殿を作事した京都大工頭中井家の指図によると家康と秀忠が使用した御殿は、本丸と南に突き出た二の丸からなっていましたが、寛永11年(1634)7月、家光上洛に先立って大規模な改修が行われ、本丸と二の丸を西に大きく拡張し、堀と土塁を巡らせ、本丸の北西に御殿・休憩所・御亭(おちん)を新造し、南東には三の丸を新造しました。
本丸の平面形が台形状で西辺が長くなっているのは、寛永11年の家光による作事によるもので、元は方形の単郭で、南側の二の丸は角馬出(かくうまだし)であったのではないかと言われています。

本丸御殿の配置図を示します。クリックすると拡大します。

2022年度の調査では、御殿の建築図面に記された乾角御矢倉(いぬい すみの おんやぐら)(左上の角)の推定地約100平方メートルを調査し、高さ約3メートルの土塁の上から、隅櫓(すみやぐら)の東壁と南壁の建物基礎とみられる石列(せきれつ)が出土しました。石列は東壁が11個で長さ約5.1メートル、南壁が9個で約4.6メートルでした。北側と西側の基礎は、1662年に起きた若狭・琵琶湖西岸地震で崩落したとみられます。
隅櫓に続く土塁内側の斜面裾から、2段分の石段「雁木(がんぎ)」の遺構も確認されています。1段の高さは約30センチで、約40度の勾配で、10段の階段があったとみられます。このほか、周辺から隅櫓にふかれた多数の瓦が見つかりました。見つかった遺構は、当時の御殿を伝える記録では「乾角御矢倉」という平屋のやぐらがあったとされる場所にあり、野洲市教育委員会では隅櫓が実在していたことを示す遺構だとみています。現地説明会も近く予定されているようですが、今回も2022年に訪問した時と同じ場所にブルーシートが掛けられたままでしたので、乾角御矢倉についての新しい知見や永原御殿の整備計画等(史跡永原御殿跡整備基本計画書)が報告されるものと思われます。

乾角御矢倉のあった土塁

その他、
①中枢部にあたる本丸の正門「南之御門(みなみのごもん)」の遺構が見つかっています。
②東側からは、出入り口部分の取付(とりつき)のための根石(ねいし)2カ所が検出されています。

南之御門 周辺(内部より南方向を撮影)

南之御門模型

御雪隠小便所・御休憩所辺り(西側から撮影): 幕府大工頭の中井家が記した指図(設計図)では、御休憩所は本丸最奥部にある家光の寝所とみられ、将軍専用のトイレ「御雪隠(おせっちん)小便所」も備わっています。

御亭(おちん)跡(邸宅に対する尊敬語)(南側から撮影)

竹藪が切り払われた御殿・古御殿・御小広間・御小台所の辺り
(南東から北西に向け撮影)

御殿模型(上方が北、写真左上の角が乾角御矢倉)

この永原御殿本丸については、令和10年頃まで整備を進められる予定とのことです。

永原御殿パンフレット(クリックで拡大します)

土安(てやす)神社
永原御殿のすぐ北にある土安神社を訪問しました。
今から850年程前、江部の荘(現在の永原、中北、北)の荘司で橘次郎時長の娘、妓王(祇王、ぎおう)と妓女(姉妹)は、京の都に出て平清盛に仕えていました。ある時、妓王は清盛にふるさとの用水不足の嘆きを申し上げたところ、清盛は、さっそく、三上山のふもとを流れる野洲川より分水して水路を開通させました。工事が途中で難航した時、夢に一人の童子が現われて、工事の手法を授けたことにより水路が無事完成したもので、上流を妓王井(ぎおうい)川、下流を童子(どうじ)川と名づけ、この童子を土安(てやす)神社に祀ったと記されています。
この神社は平安の昔、菅原神社の御旅所として創建され、御祭神に祇王井川開拓の神、童子命と開拓工事の奉行の瀬尾兼康の二神が奉祭されています。 明応7年(1498)には小堤城主永原越前守源重秀が神社を再建し、その後は永原御殿守護の社とされました。

妓王寺
妓王は、「平家物語」に登場する白拍子(歌曲や舞踊などの芸で宴席に興を添える男装の遊女)で、平清盛に寵愛されました。しかし、清盛の寵は仏御前に移り、やがて妓王は清盛から遠ざけられ、母の刀自、妹の妓女とともに嵯峨往生院(祇王寺)へ仏門に入ります。当時21歳だったとされます。
こちらの妓王寺も、この「平家物語」で知られる白拍子の妓王・妓女姉妹とその母の刀自、そして、清盛の寵愛を妓王から奪った仏御前の菩提を弔うために建てられた小寺と伝えられ、妓王・妓女姉妹の木像母の刀自、仏御前の木像が祀られています。
なお、仏門に入った後の妓王が、野洲のこちらの寺を訪れたことはないそうです。
元は妓王が建てた宝衆寺といわれ、妓王が没した翌年の建久2年(1191)宝池山妓王寺と名付けられ、長享年間に焼けた後、江戸時代の明暦2年(1656)草津の芦浦観音寺舜興が再建したといわれています。
妓王寺の拝観は予約制のため、この日は門前で説明を受けただけでした。

妓王館跡
近江国祇王村は平安時代末期の白拍子である妓王(祇王)の生誕の地です。院の北面であった父の橘次郎時長が保元元年(1156)の保元の乱で戦死したことから、妓王は妹の妓女と母刀自とともに都へ出て白拍子となり、平清盛の寵をえました。西藤島小学校の隣に、妓王とその妹の妓女が住んでいたと伝わる場所があります。上述しましたが、平清盛の心は妓王から別の白拍子である仏御前に移ってしまい、妓王は館を追い出されてしまいました。その際に障子に書き残した「萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いずれか秋に あわではつべき」という歌が写真の石柱に刻まれています。

浄専寺(じょうせんじ) 伝永原御殿の門
永原御殿関連の史跡に戻りますが、江戸時代、幕藩体制が確立して以降、将軍の上洛はなくなり、貞享2年(1685)に永原御殿は廃止されました。建物は入札にかけられ、残された建物は宝永2年(1705)に全て焼き払われました。入札された建物の行方は、御殿の一部が芦浦観音寺の書院(国の重要文化財)として移築された以外には、野洲市北のこの浄専寺にある永原御殿からの移築門のみ(石垣も寺に移設)です。
痛々しくも幾つもの鉄の棒で柱が支えられた表門は、薬医(やくい)門と呼ばれる形式です。太い親柱(欅材)の間に縦格子を組んだ両開きの扉を吊り、正面に向かって左側に脇柱を立てて脇扉を設け、屋根は切妻造(きりづまづくり)で、本瓦葺(ほんがわらぶき)とする重厚な構えの門です。
表門の柱の背面や側面、柱の頂部をつなぐ冠木(かぶき)などの部材には、柄穴や埋木(うめき)が随所にあり、かなり大きな改造を受けていることが分かります。これは、現在の形式と異なる門の一部を利用したか、複数の建物の部材を寄せ集めた可能性を示しています。さらに、柱や貫、扉の格子などの部材が太いことから、城郭や武家住宅の門であった可能性は高いと考えられます。浄専寺は浄土真宗本願寺派の寺です。

朝鮮人街道
下の写真は、朝鮮人街道と祇王井川が交叉する場所を撮影しており、道路が朝鮮人街道です。

祇王井川
三上付近で野洲川から分岐(現在は石部頭首工を水源としていますが、当初は七間場辺りからの野洲川伏流の湧き水を水源としていました)し、北東の方角に流路を取って家棟(やなむね)川に接続しています。上の土安神社で説明しましたように、妓王は水不足に苦しむ故郷の人々のために、平清盛に願い出て野洲川から琵琶湖まで約12kmの水路を掘ってもらったことから、村人は妓王を讃えてこれを妓王井と名づけたと伝えられます。ただし、平安時代末に農業用水として開削されたことは事実ですが、妓王の進言によるものかは言い伝えの域を出ません。

上写真の「祇王井川」の表示の所に集合して、後の行程は野洲駅に戻るだけということで、ここで解散となり、帰宅の途に就きました。

                                文責   岡島敏広


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