2024年3月16日(土)「近江の城郭~徳川家康と近江の城」姉川古戦場参加

joukaku

2024年03月22日 15:56

滋賀県主催の「近江の城」魅力発信事業・連続講座「近江の城郭~徳川家康と近江の城」第3回「姉川の戦いをめぐる城郭」に参加しました。
姉川の戦いは、元亀元年(1570)6月28日に近江国浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町及び三田町一帯)で行われた織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の全面衝突と伝えられています。
しかし、「姉川の戦い」「姉川合戦」という呼称は徳川氏によるものであり、布陣した土地の名から織田・浅井両氏は「野村合戦」、朝倉氏側は「三田村合戦」と呼ばれておりました。

織田信長による越前朝倉攻めにおいて、元亀元年(1570)4月26日に浅井長政の離反が起こり、信長は「金ケ崎の退き口」で有名な撤退戦により京都を経由して、岐阜にまで撤退します。
その後、織田方の攻撃に備えて浅井方によって整備された東山道・北國脇縦貫街道沿いの長比・苅安(上平寺)両城は、織田方(竹中半兵衛)の長比城の調略により無力化され、織田軍は6月19日に岐阜を発ちました。
さらに、信長は6月21日小谷城正面の虎御前山に布陣して、小谷城下を焼き払った後、姉川の南に後退して、24日横山城包囲し、信長自身は本日訪問する龍ケ鼻に布陣しました。この後、28日の姉川の戦いへと発展してゆきます。

           浅井長政

①まず、スタート地点の北郷里まちづくりセンターで、講座開始時に岩橋隆浩先生から、「姉川の戦い」に係るコースの説明を受けました。

本日のコース(約15,000歩のコースです): 訪問コースは以下の通りで、下図はGoogleマップで描いたものです。
本文中の丸数字の番号は地図中の丸数字と一致させています。

①北郷里まちづくりセンター→②遠藤直経の墓→③龍ヶ鼻砦跡→
④陣杭の柳 織田信長本陣跡→⑥姉川古戦場跡(野村町)→⑦血川→
⑧血原公園→⑨三田村氏館跡(三田町)→①北郷里まちづくりセンター

訪問コース(上方が北): 地図はクリックすると拡大します。

浅井・朝倉軍(北)側から見た姉川の戦い布陣図(上方が南で、上図と上下が逆): 当時は浅井軍(野村)、徳川軍(岡山)の周辺は田地で足を取られ戦闘場所として不向きな土地であったのに対し、朝倉軍(三田村)、織田軍(陣杭の柳)の周辺は河原地で戦闘に向いた土地であったようです。そのため、主な戦闘は織田軍と朝倉軍の守備地周辺で行われたと考えられます。

遠藤喜衛門直経の墓: ④信長の本陣跡の陣杭(じんご)の柳から南に300m離れたところです。姉川の戦いの際、浅井長政の重臣の遠藤直経が討たれた場所で、かつて、現在地から約40m程北の畑の中に「遠藤塚」と呼ばれる塚があり、直経の墓と伝えられてきましたが、昭和54年に「遠藤喜衛門直経之墓」が建立されました。小字も「円藤(遠藤)」といいます。平成9年、圃場(ほじょう)整備のため、現在地に移転しています。毎年7月1日に法要が営まれています。
遠藤直経は盟友織田信長を警戒し、早くから当主長政に、隙を見て信長を討つよう進言していました。一方で、信長が越前・朝倉領に侵攻した際は、すでに時期にあらずとして、信長に従うように進めましたが、結局、信長と袂を分かつこととなりました。
その直経の墓と伝えられる場所が、当時の状況を理解しにくいですが、この後訪問する③織田信長の陣所や④本陣跡のすぐ近くで、かつ、④本陣よりも後方に位置する場所にあります。

その理由としては、2つの説があります。
a. 姉川の戦いで直経が奮戦して信長軍は押し込まれ、この場所で討ち死したとの見方。
b. 姉川の戦いがはじまり、浅井軍の敗色が濃くなると、織田軍の将兵になりすまして味方の首級を一つ提げ、首実検中の信長の眼前にまで迫り、信長をねらったが、竹中重矩(半兵衛の弟)に不穏な動きを見破られ討死したとの見方。

③茶臼山古墳(龍ケ鼻陣所跡)近景: 織田信長と徳川家康は、写真の木が伐採された古墳(全長95mの前方後円墳)の後円部頂上に陣所を置きました。
また、陣所の奥の木が生えた小高い場所に龍ケ鼻砦がありました。

茶臼山古墳(龍ケ鼻陣所跡)上から見える小谷城方面の風景: 信長・家康の龍ケ鼻陣所跡は横山丘陵の北端に位置し、ここは、姉川と北国脇往還(白いビルや姉川の向こうにある道)を眼下に控える場所で、小谷城(写真中央の山)や大依山(おおよりやま: 右の白いビルの向こう緑の山裾)も一望できる好立地です。
姉川の戦い前日(元亀元年(1570)6月27日)の早朝、ここから、信長らは、浅井・朝倉軍が大依山の陣を撤収して姿を消したのを見ています。

姉川(北側)から見る横山丘陵と龍ケ鼻砦: 白いビルは上写真と同じビルで、その右、写真中央のはげ山が茶臼山古墳後円部(龍ケ鼻陣所跡)。龍ケ鼻砦は茶臼山古墳より一段高い位置にあり、龍ケ鼻古墳群を利用して築城されていますが、遺構ははっきりしません。
姉川の戦いの結果、写真右側の山上最も高所にある横山城は織田軍のものとなりました。しかし、浅井・朝倉氏の滅亡までは、「志賀の陣」や「箕浦合戦」、それに小谷城攻防戦などがあり、足懸け4年を要しました。

④姉川の戦いにおける織田信長の本陣跡: 信長・家康は、合戦当日6月28日の朝まで③龍ケ鼻陣所に陣取っていましたが、大依山から姿を消した浅井・朝倉軍の展開を知り、信長はこの地に本陣を移しました。
6月28日姉川の戦いが始まると、浅井軍は姉川を渡って、こちらの織田軍を奇襲しました。押しつ押されつの混戦となって、当初は浅井方佐和山城主の磯野員昌が、信長軍13段備えのうちの11段崩しをするなど、浅井軍が優勢であったと伝えられます(『浅井三代記』)。
この後は、先に訪問した②遠藤直経戦死伝承地の逸話へと繋がります。

④織田信長の陣杭(じんご)の柳: 案内板右にある柳は、信長が陣太鼓をかけて指揮をしたという伝承があり、「陣杭」は、本来「陣鼓」と書かれていたともいわれます。元々は現在地より10m北西にありましたが、平成9年(1997)圃場整備により現在地に移転しました。
現在の柳は平成元年(1989)に3代目の木から枝を取った4代目です。また、信長本陣の柵に使われた生木が自生したとも伝わっています。尾上柳という種類だそうです。

⑤徳川家康陣跡岡山(勝山): 元亀元年(1570)6月28日朝、姉川北岸の浅井・朝倉軍の展開を知った家康は、龍ヶ鼻砦から前進し、こちらに本陣を置きました。
激戦の結果、織田・徳川軍が勝利したことに因んで、これまでの呼び名の「岡山」を「勝山」と呼ぶようになったとされます。
今回は遠くから眺めるだけでしたが、勝山には江戸時代以来、「流岡神社」が鎮座しており、明治41年(1908)に上坂神社に合祀されました。流岡神社には織田信長が勝利祈願をしたとの社伝があり、上坂神社には織田信長が寄進した金灯籠が現存しているそうです。

姉川野村橋(渡った後、北の野村側から撮影): この後、姉川を渡り、浅井・朝倉軍側の陣を巡ります。

浅井軍は「姉川戦死者之碑」のある姉川北岸の野村に展開していました。

⑥姉川戦死者之碑(血川塚)         姉川古戦場バス停

「姉川戦死者之碑」前で、松下浩先生より姉川の戦いの説明を受けました。
江戸時代には、全面衝突し徳川軍が織田軍を助けたようなストーリーの軍記物が創出されています。江戸時代権力を持つ徳川氏の活躍を誇張するために、姉川の戦いの話は実際よりも誇張され伝えられているのではないかとお考えでした。
しかし、姉川北岸にはこの後訪問する「血川」や「血原」という地名が残されていることから、最初、優勢であった浅井軍は西美濃三人衆の側面からの攻撃により崩れ、織田軍はこの野村辺りで追撃戦を行ったと考えられます。小谷城下から50町(5km強)ほどの距離までの浅井・朝倉軍を追撃しましたが、最終的には小谷城にまでは攻め上がれないと判断して撤兵しています。
朝倉軍と徳川軍の戦いについては、⑧を参照ください。

血川跡(野村): 圃場整備により「血川」そのものは失われていますが、写真の「血川」の案内板の下には、この案内板と同じ幅で、戦いで血に染まったと伝えられる「血川」が流れていました。
おそらく、信長軍に追い立てられた浅井軍の将兵の血が流れたものと考えられます。

⑧血原(血原公園): 朝倉方総大将朝倉景健(あさくら かげたけ)の本陣である⑨三田村氏館と⑤家康の陣所岡山の中間にあり、朝倉軍と徳川軍の決戦の地となった場所で、多くの戦死者の血で染まったことから「血原」と呼ばれています。
最初は朝倉軍が優勢でしたが、徳川軍の榊原康政が朝倉軍を側面から攻撃し総崩れになったとされます(『信長公記』にはない記述)。
その結果、形勢は逆転し、浅井・朝倉軍に対し織田・徳川軍が大勝したとされます。

三田村氏館跡: 総大将朝倉景健は三田村の三田村氏館(現 伝正寺)に本陣を置きました。写真は方形土塁の南西部を外から撮影したものです。ここは姉川北岸で大きな勢力を持ち、姉川合戦前浅井氏方としての横山城の守将であった三田村氏の邸でした。
朝倉景健は一乗谷の戦いの後は、信長に降伏し、姓を安居と改め、所領を安堵されています。

三田村氏館跡の現状は、土塁の北側のかなりの部分が近代になって失われていますが、図のように方形の土塁であったことがわかります。邸主である三田村国定は、小谷城が落城し主家である浅井氏が滅亡した後、木下秀吉を通じて信長に投降しましたが、許されずに裏切者として殺害された(或いは戦死とも)といわれています。

姉川の戦いの後は、織田・徳川軍は、横山城下へ後退し、まもなく横山城は降伏して、信長は横山城の城番として木下秀吉を入れました。
三田村氏館跡を見学した後、本日の講座は終了・解散となり、各自、帰宅の途に就きました。
文責 岡島敏広


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