個人旅行で高知県安芸市
安芸城跡に引き続き、
阿波国一宮城跡を訪問しました。
一宮城は、昭和29年(1954)8月6日、徳島県指定史跡に指定されています。また、続日本100名城に選定され、
No. 176です。
一宮城は南北朝時代の築城とされ、阿波国守護である
小笠原長房の四男
小笠原長宗が一宮宗成を滅ぼし、南朝:延元3年、北朝:暦応元年(1338)にこの地に城郭を築いて移り住み、
一宮神社の分霊を城内に奉祀しました。その後小笠原長宗は一宮氏を称し、天正7年(1579) に土佐の
長宗我部元親が侵攻するまで、小笠原氏の末裔である一宮氏が代々居城とし、神職も兼ねていたようです。
戦国時代には一宮城は三好氏と長宗我部元親の攻防の舞台となりました。天正10年(1582)に阿波を占拠した長宗我部元親は、一宮城に兵を配置し、豊臣氏の
四国平定に対する防衛の拠点としました。
長宗我部元親が羽柴秀吉に降伏後、一宮城は天正13年(1585) に阿波に入国した
蜂須賀家政の最初の居城となり、 阿波支配の拠点として大改修を開始しましたが、翌年の
徳島城完成後には本拠を移すことになります。そして、その支城である阿波九城の一つとなり重要視され、家臣の
益田長行が城主を務めました。
しかし、元和元年(1615)の
一国一城令を受けて廃城となります。
蜂須賀家政
一宮城跡は徳島市の南西部、鮎喰川右岸にある東竜王山系の尾根先端に位置する中世山城です。 標高144mの本丸を中心に、明神丸(二の丸)、才蔵丸(三の丸)、小倉丸、 椎丸、水ノ手丸などの曲輪やそれらを防御する竪堀、土塁などが東西800m、南北500mの範囲の尾根筋上に配置されており、徳島県最大の規模と堅牢さを誇ります。
平成29年(2017)度から5か年計画で発掘調査が行われており、その報告が
リンク先にまとめられております。
なお、本丸から北東より500mの平地部にある
寄神社周辺には、御殿居(里城)とよばれる居館跡推定地が広がっています。
一宮城跡縄張図: 登山口で入手した地図で、上が
南、下が
北で方位が逆になっています。この地図のコースに従い時計回りに巡りました。
地図はクリックすると拡大します。
一宮城跡には、阿波国一之宮の一宮神社東にある登山口から登城します。
一宮城跡登山口
倉庫跡(西): 登山道を登ると最初に倉庫跡に到着します。一宮城跡には倉庫跡が2箇所あり、この曲輪は必ずしも平坦ではなく自然の尾根に少し手を加え平地にした程度のものです。普段は穀類や戦闘用の道具類を保管していた所です。両方の倉庫跡とも登城道の要所に置かれていましたが、 戦いの折に焼かれたといわれ、地名として「ヤケムギ」とも呼ばれて、以前には雨の後などに炭化麦が出土していました。
倉庫跡から眺めた一宮城跡東方面の風景
才蔵丸と東向き展望台(写真の建物): 次に到達する主要曲輪が才蔵丸で、三の丸とも呼ばれています。
標高は129.2mです。曲輪の形態は自然地形に沿った不整形で東西に細長く、曲輪内は平坦ではなく東方向にやや傾斜しています。虎口は西端に1箇所あり、堀切に面しています。才蔵丸の東の端には一段下がって曲輪を配され、北側の稜線上には堀切があり、稜線上からの侵入者を防御しています。
堀切: この堀切は上の明神丸から続く尾根を鉈で切ったように山を切り崩して作られています。 堀切によって才蔵丸は明神丸から孤立した曲輪となっています。左側が才蔵丸、右側が明神丸で、明神丸の虎口に行くにはここから後戻りする必要がありました。
明神丸(写真は南西向きに撮影): 標高は140.9m、本丸との高低差は3.4mで、本丸より明神丸が東北にあることから眺望がよくなっています。二の丸とも呼ばれています。
明神丸の周囲にはほぼ一周する細い帯曲輪が取り巻いています。また、北側の尾根からの侵入を防ぐための空堀と階段状の曲輪が配置され、北西方向にも二重の空堀が設けられています。
令和元年(2019)の発掘調査結果では、東西4間、南北4間の建物礎石又は礎石痕が明神丸で確認されました。 礎石痕は碁盤の目のように約2m間隔で25箇所あり、うち17箇所で礎石が発掘されています。礎石の多くは山下から運び上げられた比較的厚みのある円礫を用い、岩盤を削って設置されています。一宮城跡では瓦が全く出土していないことから、この建物は板葺きの建物であったと考えられます。
明神丸の盛土内からは、土師器皿や中国産の輸入陶磁器、肥前系磁器皿などが出土し、その年代は16世紀代から17世紀前半であることから、明神丸の曲輪や建物跡は蜂須賀家政の居城から廃城までの間に整備されたものと考えられました。明神丸には「剣山遙拝所」があったという伝承はありますが、庭園に用いられるような玉石や飛び石が配置されていたことから、蜂須賀氏が山頂からの眺望を楽しむ集会所として整備された可能性が考えられています。
明神丸からの南西方面の風景
明神丸(二の丸)から本丸までの帯曲輪虎口: 本丸までの間を繋ぐ長さ64m、幅13mの削平した帯曲輪があります。本丸の防御の意味から重要な曲輪で、明神丸の南側に、帯曲輪への虎口が1箇所あり、そこは石段になっています。
本丸跡東面石垣: 本丸は最高所に位置し、写真のように本丸跡の周囲には阿波青石(緑泥片岩)の石垣が組まれています。手前は上述の帯曲輪。
この現在残っている本丸の石垣などの遺構は、蜂須賀家政の阿波入国後の修築によるものです。本丸の東側には写真のように1箇所だけ虎口が設けられており、そこは櫓門になっておりました。
本丸構造: 石垣に沿っての本丸の大きさは、東北(図の下(虎口)側)では36m、西北(図右側)では23mあります。
本丸跡東面から北東面石垣: 上の本丸構造の図の下側の石垣を撮影しました。写真をクリックすると拡大します。
本丸跡階段上から虎口を見る: 石垣の高さは、本丸跡の南辺で5mほどです。
本丸跡南面石垣: 5mほどの高さがあります。
本丸跡若宮神社: 一宮城廃城後には若宮八幡宮と呼ばれていました。一宮大明神の大宮司小笠原長宗公から
成祐公まで十一代の城主がお祀りされています。
本丸跡上からの北方面風景: 本丸跡において、
平成30年(2018)の発掘調査が行われました。その結果、本丸御殿のものとみられる礎石(建物の土台になる石)や礎石痕が確認され、それらは東西 4間(8m)、南北6間(10m)の範囲に分布しており、礎石は15個、礎石痕は7箇所でした。礎石の多くは山下から運び上げられた比較的厚みのある円礫を用い、岩盤を削って設置しています。 いずれも約1.9mのほぼ等間隔で並び、御殿は約80平方mと推測されます。
また、一宮城跡では瓦が全く出土していないことから、建物は板葺き屋根の本丸御殿で、壁は土壁であったと考えられます。戦国時代の山城で本丸に御殿を置く例は全国でも珍しいもので、本丸跡の石垣の組み方が徳島城と似ていることから、蜂須賀氏による建設と考えられ、石垣の構築年代から、本丸御殿も蜂須賀氏が概ね文禄~慶長期に整備したものと考えられます。
本丸造成の盛土内からは、16世紀代の土師器皿や備前焼大甕、瀬戸焼天目茶碗、中国産輸入陶磁器(青磁碗、染付皿)などが出土しています。
釜床跡: 本丸跡の西側で一段下がった場所に釜床曲輪があります。城の炊事場の跡で、北の斜面は石垣で築かれています。本丸跡の虎口にある石段、本丸跡の礎石、そして釜床の石組は同世代の遺構と考えられています。
この後の釜床跡から小倉丸までの見学コース
本丸跡南側の堀切: 一宮城跡では最大の堀切で、堀切の方向に進むと才蔵丸に戻ります。
小倉丸虎口: 小倉丸は本丸の南側を防御するように作られた細長い曲輪です。小倉丸において、この後訪問する貯水池の方向である西南には高さ2mの土塁が巡らされています。他方、味方のいる本丸側には土塁はありません。
虎口は中央部にこの1箇所があり、土塁の長さは内側で58m、土塁は直線的なものではなく、地形に応じて少しずつ湾曲しています。また土塁の北西に突出して櫓台があります。
今回はこの虎口から先には行っていないことから、曲輪の様子を直接確認できていません。
小倉丸の蜂須賀氏入城以前の状況を確認するため、
令和2年(2020)の発掘調査が小倉丸で実施されています。小倉丸の腐葉土直下から石敷き遺構が確認され、小倉丸は数回に分けて改修されていたことがわかりました。また、土塁については、筋状に岩盤を残しつつその上に土を盛って構築する手法がとられ、小倉丸西側斜面に広がる横堀や土塁と併せて非常に大規模な作事(土木工事) が行われていたことが確認されました。
このことから、小倉丸は空堀、土塁、そして櫓台から横矢をかける構造に造られており、一宮城の南方面防御の重要な拠点であったことがわかります。
小倉丸西側空堀: 小倉丸西南の土塁の外側には写真の空堀が巡らされています。この空堀は横移動が可能な通路としても利用されていたようで、西南の虎口と連結しています。
椎丸(しいのまる)への分岐: 小倉丸からさらに西方向に進むと、椎丸・水ノ手丸へ進む道と貯水池へ向かう道に分かれていたことから、椎丸の方に進みました。
椎丸: ここ椎丸と先に水ノ手丸がありますが、この先に難所があるとの警告表示があったことから、ここで引き返し分岐点まで戻って貯水池に向かいました。
椎丸と水ノ手丸の双方の曲輪とも貯水池を守るように配されており、土塁や竪堀、堀切で防御しています。椎丸は主要6曲輪の中で最も小さく東西、南北20mです。
双方とも本丸方向にそれぞれ虎口を開けています。
水ノ手丸: 貯水池へ向かう途中、水ノ手丸へ登る道の表示がありましたので、見上げてみました。上方にあります。
貯水池と堤跡(上流方向を撮影しています): 十分な水が確保できることが山城の必須条件で、この貯水池の下手(写真手前側)には水を溜めるための土手が築かれていました。現在、土手は切られていますが、当時は大きな貯水池がありました。水は南の谷から覚で引いたといわれています。
一宮城では、この貯水池を馬蹄形に囲むように、小倉丸、椎丸、水ノ手丸が配されており、またそれらの曲輪を連結するような小さい曲輪もあって防御施設が作られていました。この貯水池があったことから、四国平定時、長宗我部軍は豊臣秀長の猛攻に耐える事が出来たと考えられてます。
陰滝(いんだき)(上から撮影): 上手の貯水池(写真右)から水が下へと流れ落ちています。
陰滝下から撮影: 貯水池は、周囲の曲輪とこの岩壁によって強固に守られていました。ここは採石場の跡だともいわれます。
宮の奥の枝垂桜: 陰滝を過ぎると下山の傾斜も緩やかとなり、一宮城跡の見学も終了です。
森から出た所に枝垂桜が咲き誇って疲れを癒してくれました。
以上、一宮城跡の見学を終えて、日も暮れ始めていましたので、この後は本日の宿へと移動しました。
本日は
土佐国安芸城と北川村「モネの庭」マルモッタン、室戸岬も訪問しましたので、歩行歩数を分けることができませんが、2城と植物園等を含めて、13,000歩歩きました。
明日は徳島市内にある勝瑞(しょうずい)城を訪問する予定です。
文責 岡島 敏広