2025年4月1日(火)高知県土佐国安芸城跡訪問(安芸市)

joukaku

2025年04月17日 09:07

個人旅行で高知県高知市高知城に引き続き、高知県安芸市安芸城跡を訪問しました。

安芸城跡は中世の安芸氏が築いた城山部分と、江戸時代に土佐藩家老であった五藤氏により整備された土居により構成されます。「土居」とは、土手に囲まれた領主屋敷のことを指します。
本日はこの後の訪問予定と時間の関係で、城山部分の訪問は諦め土居のみを訪問しました。

安芸城は、鎌倉時代の延慶元年(1308)、安芸親氏によって築かれたといわれ、戦国時代まで安芸氏の居城でした。
安芸氏は、壬申の乱 (672) で敗れ、土佐へ流された蘇我赤兄の子孫と伝えられています。戦国期には土佐七雄の一人に数えられ、「安芸五千貫」を領有する大豪族として安芸郡ばかりでなく、香美郡の東部にまで進出し、土佐国東部で最大の勢力を誇るようになりました。安芸城最後の城主安芸備後守国虎は、西部に隣接し土佐の覇権を狙う長宗我部元親と激しく対立、抗争を繰り返します。安芸国虎は一条兼定と結び、八流の戦い(八流崩れ)と呼ばれる長宗我部氏討伐の合戦を起こしましたが、逆に安芸城を攻められる結果となりました。永禄12年(1569) 7月、ついに7000人余の大軍を率いた元親軍に攻められ、24日間の籠城の末、元親に寝返る者も出たことから、将兵の助命を条件に降伏を申し出、自らは菩提寺である浄貞寺で自刃し安芸氏は滅びました。

安芸国虎と長宗我部元親の攻防(図はクリックすると拡大します)

落城後は元親の弟である香宗我部親泰が安芸城に入城し、「安芸」を「安喜」と改め、長宗我部氏が約30年間支配して、阿波進攻の拠点として用いました。

関ヶ原の戦いの後、慶長6年(1601) に長宗我部氏に代わって山内一豊に土佐一国が与えられると、山間部が多く東西に広い土佐国を治めるため、佐川宿毛窪川本山、安芸(安喜)の5箇所の城に家老または重臣を配置しました。これら5箇所の城には、家老屋敷を中心に小規模な城下町も形成されました。安芸(安喜)を預けられた重臣の五藤為重は、この地に千百石の知行で配されました。五藤為重は居留地として安喜城を選びます。
しかし、元和元年(1615)に一国一城令により安喜城は廃城になりましたが、城を「土居」と称して、内堀に囲まれた土居内を整備し、改修や修復が繰り返されて屋敷が幕末まで構えられました。
江戸時代は「安芸」と「安喜」がともに使われていました。
元亀元年(1570)、越前(福井県)朝倉氏攻めの際、一豊は敵を討ち取ったものの、左の目尻から右の奥歯にかけて矢を射られました。家臣の五藤為浄はその矢を抜こうとしますが、なかなか抜けず、一豊の言葉に従い、わらじをはいたまま一豊の顔を踏み矢を抜き取りました。土佐藩主となった一豊は、為浄の武功を重んじて、五藤家に安芸を預けました。

安芸城(土居)跡は、高知県安芸平野のほぼ中央にあり、標高約41m、東西100m、南北190mの楕円形をした平山城で、頂上の詰からは安芸平野や太平洋が一望できます。詰のほか、二の段、三の段などの曲輪や堀切、虎口、土塁などの遺構、追手門の枡形が良好に残り、 昭和44年(1969)安芸市の保護有形文化財(史跡)に指定されました。
以下の2つの絵図は江戸時代の異なる2時期に描かれた安芸城の図です。

安芸土居構之図(江戸時代前期)(安芸市立歴史民俗資料館蔵)の部分改変図: 現在の縄張とは異なっています。(図はクリックすると拡大します)

安喜土居内外細図(江戸時代後期)の部分改変図: 上掲江戸時代前期の状態から「南三壇目」が削られ、曲輪名が変更されて現在の姿に近くなっています。また、時期により五藤家屋敷の配置も変更されています。(図はクリックすると拡大します)

ここから現地の訪問です。
当初安芸城跡の訪問は予定にありませんでしたが、室戸岬へ行く途中に「野良時計」というのがあるということで安芸市に立ち寄りました。その周辺には城郭と武家屋敷があるとの説明がありましたので散策してみました。「野良時計」の後、それらを訪問します。

野良時計」: まだ家ごとに時計がなかった頃、土地の地主であった畠中源馬は時計に興味をもち、アメリカから八角形の掛け時計を取り寄せました。それを幾度も分解しては組み立てて仕組みを覚え、自作の大時計を作ることを思い立ちました。
分銅も歯車もすべて手作りし、一人で写真のように作りあげたのは明治20年頃のことです。壊れてはいないものの、操作が難しく交換部品もないことから、現在は動かされていませんが、今でも周辺の人々には「野良時計」として親しまれています。

「野良時計」のある所から城下町(土居廓中、どいかちゅう)を抜けて北に歩いて行きますと、安芸城跡があります。

西(領主五藤家屋敷)側の堀に接した腰巻石垣と土塁: 安芸城跡は堀と土塁(水に接する部分は石垣)に囲まれています。安芸城跡を取り囲む土塁、堀、追手の桝形などは、安芸氏により整えられたものを基本としていると考えられています。

堀: 夏には白いハスの花が咲くようです。

土橋: 堀を渡って追手の桝形に続く土橋です。

追手門枡形外側

追手門枡形内側

城山三ノ段石垣: 上掲の江戸後期の安喜土居内外細図や下記の五藤家屋敷での説明のように、現在は城山南端部(写真手前の梅林辺り)が削られて石垣が積まれています。
筆者は城山は訪問しておりませんので、城山の様子を紹介した別のブログをこちらに示します。

五藤家屋敷: 現在、安芸城跡城山の南麓、堀の内側に占める屋敷地(土居)のほぼ中央に東西棟で建っています。
発掘調査報告書によれば、戦国期安芸氏の土居については、城山は現在の土居構えの南堀部分までのび、土居はその東麓北よりで、東と南は湿地の自然の要害に守られた小規模な掘立柱を中心としたものであったと考えられています。

安芸に置かれた五藤氏は、山内氏と同じく尾張の出身で、寛文10年(1670)頃土佐藩の家老となり、幕末まで藩の要職を務めました。
入国直後に掘立であった土居内屋敷は、礎石に変えられ、整備がなされてゆきましたが、地形的に急激な拡大整地はなされず、安芸氏の土居を踏襲したものでした。
時期は不明ながら、火災による焼失後に大規模な整地が断行され、城山南端部の削り取りによる低地部の埋め立てと嵩上げがすすめられて、土居の面積も確保され、現状の土居構えの景観に整備されたと考えられています。

五藤氏は、土居の外側には、家臣団の居住地である廓中(かちゅう)を整えました。これが土居廓中です。

土居廓中(かちゅう)の集落構成
土居廓中は、安芸城(土居)に置かれた五藤氏の城下町で、城下は武家地のみで構成されています。
町人地は2kmほど南の安芸浦や、土居廓中までの街道沿いに形成されました。

土居廓中周辺は条里制の遺構がよく残る古代から開けた土地で、城山を背にして、城の南東から西にかけて広がっています。主要な道路として、土居廓中の南正面と堀に面した東西道路2本、城の正面と土居廓中の西部を貫く南北道路2本があります。
町は南正面にあたる南町(前町)、西側の西町、東側の東町、城の西側で西町の北にあたる北町に分かれます。
城の正面の東西には「菜園所」がありました。

土居廓中には、武家屋敷が並ぶ町割と、江戸時代末期から昭和初期にかけての建物が残され、狭い通りに沿って石溝や生垣、塀等が連なる武家地特有の歴史的風致を今日に良く伝えています。
地元住民が昭和49年(1974)結成した「ふるさと土佐土居廓中保存会」により保存されてきた歴史的な町並みは、安芸市土居廓中伝統的建造物群保存地区とされ、平成24年(2012)7月に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。

土居廓中西部貫通道路沿いの野村家住宅入口(写真右建物、南側から撮影): 2本の南北道路のうちの1つ、西部の道路沿いで、ウバメガシや土用竹の生垣で囲まれた町なみは、武家屋敷の面影をとどめています。
野村家は、四ツ辻南東の角地にあり、西と北の2 面で道路に面しており、屋敷への出入口となる家門は西側のこの写真の道路に面しています。

野村家住宅北西角風景(写真左建物、北側から撮影): 真っすぐのびるのは、西部の道路です。

■野村家の歴史
ここ野村家は、与力・騎馬として五藤家に仕えた上流の家臣であり、地元の財政、家臣の人事等の惣役(元締)を行っていたといわれます。
家屋は幕末の建造らしく、終戦後に炊事場と縁側が一部改造されましたが、間取り等は当時の武家様式がみられます。
野村家は香美郡山北村(現香南市)の出身で、五藤氏の土佐入国後に登用され、五藤家の財政や家臣の人事などに関わる役を担っており、元禄10年(1697)には騎馬50石であったといいます。
現在地を屋敷としたのは19世紀初頭と考えられています。

塀重門(へいじゅうもん): 家門から中に入ると柱2本、両開きの扉2個からなるシンプルな門があります。

■野村家の屋敷構え: 主屋は、屋敷地のほぼ中央部に、正面を西に向けて建てられています。
主屋の南側には庭が、北側には裏庭(菜園)が広がっています。
また、西側の道路に沿って風呂便所、物置、米蔵、薪置場などの附属屋が並んでいます。

主屋は、建物の南北で使われ方が異なっています。
主屋南側部分は、「玄関」「次の間」「表の間」と続く座敷です。南側の庭の緑に面し環境の良い部屋になっており、主人の執務や来客の応接などに使用された「公的に使用される部屋」でした。
他方、北側部分は「居間」「納戸」「茶の間」「かまや」で、主屋北側の裏庭(菜園)や附属屋に面した、主に家族の生活に使用された「私的な部屋」でした。

屋敷地におけるこうした建物の構成や配置は、土居廓中の武家屋敷の典型的なものと言えます。

主屋南側部分(「公的に使用される部屋」)の玄関: 武家地であることから、刀による立ち回りが困難となるよう、玄関は3畳と狭く作られています。

主屋南側部分(「公的に使用される部屋」)の表の間

主屋北側部分(「私的な部屋」)の納戸(写真手前)、居間(写真奥2室)

以上、土佐国安芸城(土居)跡と城下町(土居廓中)の武家屋敷の見学を終えました。
この後は計画に従い、室戸岬を経由して徳島県阿波国一宮城へと移動しました。

                            文責 岡島 敏広


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