2022年11月1日(火) 地域文化学科選択講座「安土城の見方、調べ方」

joukaku

2022年11月02日 20:05

中井先生によるレイカディア大学地域文化学科選択講座の第3回目の校外学習です。本日はあいにくの雨模様ですが、授業ですので、先生に挨拶しまして安土城に登り、その後、安土の城下町を見学する予定です。

安土城は、ご存じのように織田信長により築城された城です。

また、安土城は滋賀県により平成元年から発掘調査されており、その前に訪れその時の記憶のある人は様子が大きく変わっているという印象を持っておられるのではないでしょうか?歴史とともに発掘調査の裏話までご存じの先生は、開口一番、「安土城が築城された当時の絵図は一つも残されておらず、安土城築城(1576年)後、100年を過ぎた江戸時代(1687年)に描かれた絵図(近江国蒲生郡安土古城図)が最古です。」とおっしゃいました。したがって、現在、下図にあるような、安土城の各所に名づけられている屋敷地名は江戸時代の絵図に基づいています。

NHK番組「歴史探偵」で示されたVRに基づく南側から見る安土城の風景です。ルイス・フロイスの記録では、上級家臣たちの諸邸宅が手柄に応じて安土山の山腹や山麓部に上部に向かって重なり合うように建てられていたとされています。

まず、最初に訪れたのが、山麓にある「伝羽柴秀吉邸跡」です。そして、「伝羽柴秀吉邸跡は屋敷跡の構造から、羽柴秀吉邸であるはずがない」とお話が始まりました。というのは、「伝羽柴秀吉邸跡」は一等地にあり、上の「大手道周辺」地図のように二段の屋敷の構造となっています。まず、下段の屋敷地を訪れますと、門の礎石があり、写真のように階段を上った後の平坦地には馬屋があったと思われる構造となっています。写真奥にも大きな石垣が見えていますが、この上が屋敷地で、そこには書院があって秀吉よりも格上の人が住んでいたと考えられ、立地及び広さ等もあわせて考えると、これは信長自身の屋敷跡で山裾に御殿を構えていたと考えるのが妥当とのことでした。ここは天主周辺とは異なり焼けていません。ちなみに、秀吉は安土城築城3年前に長浜城主となっていて、普段は住んでいなかったと考えられます。

「大手道」を挟んで「伝羽柴秀吉邸跡」の反対(北)側にあるのが、「伝徳川家康邸跡」ですが、ここには江戸時代末期1854年に焼けた摠見寺の仮本堂が建てられています。写真は「伝徳川家康邸跡」の石垣の隅角部分を写していますが、2つの隅角部分があり、手前は発掘調査後積み直されたもの、奥に見えるのが、元からあった隅角部分です。

下は安土山南斜面にある焼けた摠見寺本堂跡です。この手前を発掘調査すると、深さ1mの所から礎石が見つかっています。信長は安土城の完成前に城に移ってきていますので、先生は天正4年1~2月の城の完成前に住んでいた仮御殿の礎石ではないかと考えておられます。

「伝羽柴秀吉邸跡」「伝徳川家康邸跡」より少し登った地点より「大手道」を見下ろしていますが、ここも本当は大手道ではなく、百々(どど)橋口までの町なかの道が安土城の本当の大手道(登城口までの城下町内の道)で、百々橋口から城へ登る道は登城道と呼ぶのだそうです。その理由は、大手道は城下町内を通ります。しかし、現在いう「大手道」を下りた先から県道2号(朝鮮人街道/下街道)までは堀で、その先は今は干拓されて畑になっていますが、湿地帯が広がっていて人が誰も住んでおらず城下町ではなかったからです。今も人は住んでいません。

直線のいわゆる「大手道」を登って左に曲がった地点から摠見寺仮本堂の方を見ています。木立の間に小さく石の階段が見えていますが、摠見寺住職の墓へと通じる道で、徳川家は摠見寺住職は信長の家系の人を就任させることにしたのだそうです。
この地点辺りから、石段などに石仏を転用している(転用石を用いている)のが見られる所で、観光客により賽銭が供えられたりしています。しかし、信長は美的感覚が厳しく、転用石は目立たない所に用い、石垣などの目立つ所には用いておりません。信長は転用して宗教を弾圧するつもりはなく、逆に安土城内に摠見寺というお寺を建てています。
また、黒金門までの途中に「織田信澄邸址」や「伝森蘭丸邸址」の碑がありましたが、先生によれば、江戸時代の絵図にもなく、県の方で城の中心部に近いから、蘭丸や甥の信澄なら住んでいただろうと想像して、勝手に碑を建てたのだそうです。

先生が黒金門の礎石(オリジナル)の上に立っていますが、左の小さな礎石は黒金門の潜戸の礎石です。ここに大きな黒金門があって、門を奥へと開くと、扉は先生の後ろに迫った階段にぶつかり開けられません。すなわち、この階段は門のことは無視して、後になって取り付けられた階段であることがわかります。城の中心部へ入る黒金門の下辺りから用いられている石材の大きさが大型化しています。石材としては安土山を形づくっている湖東流紋岩が用いられていることから、山から採れる石をそのまま石垣などに利用していることがわかります。

フィリップス・ファン・ウィンゲ(1560-92)によるバチカン宮殿安土城屏風の櫓門部分模写(右側石垣巨石は見せるためのもので、主要門である伝黒鉄門、本丸西門、本丸南門のいずれかの可能性大)

NHK番組「歴史探偵」のVR画像も示します。
左:黒鉄門への枡形虎口入口で先生   右: 黒鉄門
の立っている辺り

ここから三の丸~天主へと行きます。三の丸には織田信雄(のぶかつ)の家系四代の墓所があります。本能寺の変で嫡男の信忠が討ち死にしていることから、織田家の嫡流は次男の信雄の一族であると主張したいのでしょう。

写真は信雄一族の墓所から出て、仏足石方向に向かう角の二の丸石垣の隅角部分で、オリジナルのまま触られていないものです。すでに算木積みの技術が用いられており、小谷城では垂直ですが、信長時代には傾斜して寝てきております。

二の丸、本丸への登り口に仏足石が置かれていました。これも当初は転用石として「仏足」は隠すようにして石垣に用いられていたと考えられます。珍しいので、ここに飾っているのだそうです。

二の丸、本丸への階段ですが、半分だけ石段にされています。元は土部分も含む幅広い階段であったものを、すべては復元していないのだそうです。

階段を上り左に行くと、信長公本廟(二の丸)があります。廟所は秀吉が建てたもので、おそらく信長の御座所(御幸の御間)であったことを考慮して場所が選定されていると思われます。現在、廟の正面の石垣は美しい切り石が隙間なく積まれていますが、この石垣は幕末に摘み直されたものです。
秀吉は主筋の織田家に取って代わり、天下を乗っ取っていますから、ここに信長の廟所を設け、織田家を廟所としての安土城に封印したかったのでしょう。後の豊臣秀次の時には、八幡山城を築き、安土の城下町全体も近江八幡に移しています。
写真は石段正面にある「蛇石」ではないかと考えられている石です。信長公記巻九(天正四年安土御普請)の1万余の人数をかけて三日三晩かかって引き上げたにしては、小さい印象です。他には可能性のある石は見つかっていないことから、中井先生は天主台など(加藤理文先生は信長の御座所の信長公本廟(二の丸)?)の下に埋められているのではないかと考えておられます。
写真の奥の石垣は天主台の石垣で、ここには火がかかっていて、表面が焼けてボロボロとなっています。地面からも焼けた瓦片、木炭になった柱や焼けて赤くなった土が見つかっています。安土城天主を焼いた張本人については、説はありますが、不明です。

本丸跡に来ました。本丸御殿の礎石には焼けた跡があるそうで、先生は礎石の上に立っています。この礎石は武家屋敷と異なり、7尺2寸(約2.18m)の間隔で設置され、天皇の住まいの内裏清涼殿に似て、瓦も見つかっていないので檜皮葺の屋根であったと考えられます。この後の時代に、城の本丸御殿に檜皮葺屋根を用いるのは、安土城が始まりと考えられています。

天主台に上がる階段ですが、ここは建物の内部であったと考えられ、笏谷石が敷き詰められています。雨が降って石の特徴の美しい緑色が確かめられます。この笏谷石は柴田勝家が信長に切石数百を7月11日に進上したと信長公記巻十四に記載されていますので、その切石そのものと考えられます。階段中央は人が通るので、笏谷石が割れています。

この後、有名な天主台に登り、礎石等を確認しました。これらの礎石は本物で貴重であることから、将来は礎石の上に乗ることが出来なくなるかもしれないとおっしゃておりました。安土城の天主の想像図はたくさんありますが、静嘉堂文庫所蔵の「天守指図」に基づいた内藤昌先生の復元案が最も有名です。中井先生は根拠とする文献が同じでも、何故そんなに多様な復元案ができるのだろうと不思議そうにおっしゃっていました。
フィリップス・ファン・ウィンゲ(1560-92)によるバチカン宮殿安土城屏風の天主望楼の模写(部分)を下に示しました。各先生の復元案と整合するかはわかりませんが、模写は五、六階の望楼部のみを表現し、後ろに人らしきものが見えるのは、琵琶湖に浮かぶ船を描いたものと思われます。

信長がこの城を建てることにより、それ以降築城される日本の「城」の概念を打ち立てたと言えるそうです。また、安土城を築城した時には信長は家督を信忠に譲っていたことから、安土城は実用的というよりも金箔瓦を用いたプライベート(趣味的)な城であるとも言えるようです。

南西側にある百々橋口で本当の登城道の入口です。

安土城城下町は六角氏の観音寺城下東山道沿いの石寺にあったものを信長がこちらに移し、八幡山城が築城されてからは、豊臣秀次によって町全体が八幡の方に移されています。
安土城城下町の見学では、本当の大手道沿いにある「新宮大社」に立ち寄りました。ここの茅葺き拝殿は18世紀中頃の建物と考えられており、その中にはご覧のように「竹相撲」の様子が描かれています。信長は相撲が好きで、この絵は、両者互角で、結局相撲の勝敗が付かず、褒美として、信長が一方に「東」、他方に「西」という名字を与えたことを示しています。このうちの「東」さんは現在も安土町内にお住いで、この逸話から、相撲では「ひがし~ぃ、にし~ぃ」と力士を呼び出すのだそうです。ちなみに、「西」さんは転居されています。
ところで、この絵には織田氏家紋の「織田木瓜(もっこう)」が描かれています。 この家紋は、織田氏が越前にいた頃、朝倉氏(家紋は「三つ盛り木瓜」)より妻を迎えた時に与えられたとされています。他方、信長が足利義昭を連れて上洛し、朝倉義景に上洛を求めても従わなかったこと、最終的に、従わなかったことを理由に朝倉氏を滅ぼしたという事実との因縁が伺われます。

大手道を先に進むと、相撲の東さんのお家は、「東家住宅」として前に観光案内の看板が建てられていました。

最後に、セミナリヨ跡が本日のゴールです。安土のセミナリヨは純和風建築三階建ての神学校で、信長に安土城と同じ瓦(金箔瓦ではない)で葺くよう命じられたことが、ルイス・フロイスの「日本史」に記載されています。跡地の碑はありますが、ここは発掘されているわけではなく、「セミナリヨ跡推定地」であって、本当の場所は明確ではありません。ここを推定地とする理由は、この場所の小字が「大臼(だいうす)(=ゼウス)」(京都地名研究会編 近江の地名 サンライズ出版p.153)であるからですが、隣接地が1986-87年発掘されており、特に関連する遺物は出土しておりません。また、近く(下豊浦北の信号機辺り)に「シウノミザ(主の御座)」という小字の場所があることから、こちらではないかという考え方もあります。


セミナリヨ跡で本日の安土城についての校外学習をすべて終え、解散となりました。午後には雨は止みましたが、午前中の雨模様の中、お疲れさまでした。

次回校外学習は2022年12月13日(彦根城)に予定されています。
      文責 岡島 敏広


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