レイカディア大学38期生の主催により、岐阜県恵那市
美濃岩村城を探訪地として城郭探訪OB会第88回例会が開催されました。今回は滋賀県外ですので、バス旅行によるもので89名の参加でした。本日の総歩行歩数は9,000歩でした。
岩村城は
日本三大山城の1つで、日本100名城に選定され、
No.38です。別名「霧ヶ城」とも呼ばれ、岩村城跡は、昭和32年(1957)12月19日、岐阜県史跡に指定されています。
岩村城は、源頼朝の近臣、
加藤景廉の長男
遠山景朝によって築かれたとされる難攻不落の名城で、その子孫の岩村遠山氏が戦国時代に至るまで城主でした。
遠山景朝が遠山荘に赴任した鎌倉時代初期頃には平坦部に築かれた砦あるいは城館的なものであり、現在の山城が築かれ始めたのは、城内の八幡神社の棟札から、織田氏・徳川氏・武田氏の争奪戦が激しくなった戦国時代末期の16世紀中に遠山氏・武田氏の手で本格的山城が構築されたとみられます。
特に信長の叔母の「
お艶(つや)の方」が信長の意向で女城主になり、後に悲劇的な最期を迎えることになりましたが、最後まで領民を守ったことから「
女城主の里」と呼ばれています。
江戸時代には、岩村藩として、丹羽氏が5代35年間、松平氏が7代170年間に渡り居城しました。
お艶の方
岩村城絵図及び平面図は、昔日の岩村城を知るうえで貴重な資料です。
城絵図は、享保3年(1718)12月17日城主
松平能登守乗賢が、岩村城石垣修理の許可申請を幕府に提出したとき添付したものであり、石垣の破損箇所を一々朱引きして指示しています。絵図の大きさは縦2.12m、横1.82mです。また、平面図は明和3年(1766)岩村藩士磯貝正貞が、門人と共に城内全部を測量して作ったものであり、「以三分為一間、以一尺八寸為一町」(0.9cmを1.8mとする、68cmを100mとする)の註書がある。平面図の大きさは横364cm、縦182cmです。
享保三年岩村城絵図
岩村城探訪コース: マップ上の赤い矢印に従い、岩村城跡と岩村城下町を訪問しました。地図をクリックすると図は拡大します。
滋賀県より岩村藩主邸跡に観光バスが到着: 江戸時代初期に、ここに岩村藩主邸が建築され、藩主が岩村城本丸から移り住みました。手前の駐車場の空間に御殿がありましたが、現在は歴史資料館が建てられています。
敷地内には知新館正門(右側に正門の一部が写っています)が移築され、藩主邸にあった太鼓櫓(左の建物)や表御門が再建され、岩村藩出身の儒学者
佐藤一斎の像、
三学戒の碑が建てられています。
ガイドさんの岩村藩主邸の説明: 慶長6年(1601)、
松平家乗によって岩村城の北西山麓に藩主邸が構えられました。下屋敷とも呼ばれましたが、明治14年(1881)に全焼しました。
ガイドさんが示す説明図の下側には、太鼓櫓・表御門の手前に御殿がCG(Computer Graphics)で描かれています。絵図の上が手前に太鼓櫓・表御門があり、入口からの光景、下が奥から見た様子を描いたものです。
太鼓櫓・表御門(復元)内側: 左から駐車場広場から見た太鼓櫓・表御門と蔵です。
現在、藩主邸は岩村歴史資料館や駐車場となっていますが、写真のように太鼓櫓・表御門、平重門などが平成2年(1990)に復元されました。
太鼓櫓・表御門(復元)外側
知新館正門(移築):
知新館は、元禄15年(1702)に信州小諸から転封してきた
松平乗紀(のりただ)によって創設された岩村藩の藩校です。
大給松平家は学問を奨励し、松平乗紀は日本で三校目となる藩校・文武所を創設しました。当初は文武所と称し学舎を城下の新市場に建てましたが、後に殿町(現恵那特別支援学校敷地内)へ移しました。藩校の名称も知新館と改め、
佐藤周軒を招聘して儒員とし藩士の子弟の教育に当たらせました。
知新館正門は、岩村高校(現恵那特別支援学校)の敷地に西面して建っていましたが、昭和58年(1983)に、ここ岩村城藩主邸跡に移築されました。
平重門(復元): 恐らく大手門以降の城内にあった門と思われますが、どこの門かはわかりませんでした。
藤坂: 一直線に登ってきた登城坂(藤坂)は、ここで地形に沿って大きく左に曲がりますが、一度右に曲がるヘアピンカーブとしています。敵が攻めてきたときに一気に登れないようにする工夫です。
初門(仮門)絵図(享保三年岩村城絵図、現地説明板より。以下の絵図も同様): ここには有事には仮設の門を設ける計画だったと言われます。
絵図をクリックしてしばらく待つとCGが開始します。CGは「城下町ホットいわむら」にリンクさせていただきました(以下同様)。
初門跡
大手一の門: 登城道(とじょうどう)の最初の門で、櫓門と多門櫓、その両脇の曲輪により厳重に守られています。単純な平入りの門ですが、その弱点を補うために門の前面に石塁(せきるい)を設け、攻撃側が一度に大勢が門に取り付けないように工夫されています。
一の門絵図(享保三年岩村城絵図): 絵図をクリックしてしばらく待つとCGが開始します。
一の門へ向かう登城道: 登城道の最初に設けられた第一の門で、櫓門とその脇に単層の櫓の一の門櫓が構えられてました。
一の門跡から下方を臨む
土岐門: 大手二の門(おおてにのもん)は「土岐門」「土岐殿門」(ときどのもん)と呼ばれています。
戦勝記念に土岐氏の城から奪って移築したからとも、この付近に住みついた仏法僧(コノハズク)の鳴き声が「ときとん」と聞こえたからとも言われています。
土岐門の内側は馬出曲輪(うまだしくるわ)になっています。
土岐門絵図: 絵図をクリックしてしばらく待つとCGが開始します。
ここにあった土岐門(後方の石垣)は薬医門で、明治初年に払い下げられ、恵那市岩村町
徳祥寺山門として現存しています。
畳橋: 追手門は、櫓門と棟門(むねもん)を直角に組み合わせた外枡形門(そとますがたもん)です。前面に架かる橋は、敵が攻めてきたときに畳を上げるように橋板(はしいた)を取り外すことができたことから、畳橋と呼ばれています。
畳橋絵図(享保三年岩村城絵図): 絵図をクリックしてしばらく待つとCGが開始します。
畳橋へ続く斜面
畳橋石垣(手前石垣)と追手門石垣(奥石垣): 畳橋石垣と追手門・三重櫓石垣の間は、現在は通過できますが、空堀となっていて畳橋が架かっていました。
追手門・三重櫓石垣: 場内唯一の三重櫓は、一の門を突破し追手門に迫る敵に強力な射撃を浴びせる防御の要です。
三重櫓は城下町から城を見上げると最もよく見える場所にあり、天守(てんしゅ)の役割も果たしていました。
上記絵図に基づいた畳橋CG
畳橋下空堀跡
追手門から三重櫓跡へ: 土岐門に続く第3の門が追手門で、写真正面の石垣は三重櫓跡です。
龍神の井: 岩村城の山頂に、名水霧ヶ井と龍神の井があります。この城は今から800年余り前、源頼朝の重臣
加藤景廉(かげかど)がこの地に城を創築したことに始まり、明治まで連綿と城主が続いた全国的にも珍しい城です。
山頂の本丸跡は海抜717mの高地にあり、現在も1,700mにも及ぶ石垣や石塁が残り、往時を偲ぶことができます。この城の中には17もの井戸があり、中でも最大の井戸がこの龍神の井です。
霧ケ井: 城の別名に由来する伝説を持つ重要な井戸が霧ヶ井で、城主専用の霊泉でした。
敵が攻めてきた時、井戸の中に城主秘蔵の蛇骨を投げ込むと霧がいずことなく湧き出て、城の全山を覆い隠し守ったといわれています。しかも、山頂にありながら、今日に至るまで井戸水が涸れることはなく、岩村城の七不思議の一つとなっています。なお、蛇骨は二の丸の宝物蔵で保管されていました。
二の丸菱櫓跡(右石垣): 二の丸は岩村城最大の曲輪で、番所、役人詰所、朱印蔵、武器庫、米蔵などの施設が設けられていました。また、その中心部には方形の弁天池が配置されていました。この二の丸東側の石垣は自然地形に沿って鈍角につまれています。この石垣に合わせて平面を「く」の字状とした菱櫓が建てられていました。
写真をクリックしてしばらく待つとCGが開始します。
二の丸・渡り櫓跡(上方の本丸からの光景): 上記写真の少し先に進んだ地点に当たります。何も残っていませんが、二の丸正面は複雑な構造となっており、二の丸櫓門や特殊な二重櫓の「渡り櫓」が構えられていました。「渡り櫓」の2階と二の丸門の間をまたいで廊下橋が架けられており、本丸・二の丸と八幡曲輪を視覚的に画する機能を持っていたと考えられます。
写真をクリックしてしばらく待つと廃城前の様子がCGが開始します。
本丸六段壁絵図(享保三年岩村城絵図): 六段壁は江戸時代後期に築かれたものであることから、この絵図では六段になっていません。
絵図をクリックしてしばらく待つとCGが開始します。
本丸六段壁前での集合写真: 岩村城の魅力の1つが壮大な石垣で、この六段壁と呼ばれる石垣は、防御力を高めるため巧妙に設計され圧巻の高さと美しさを誇ります。しかし、六段の石垣は、はじめは最上段の一段のみの高石垣(たかいしがき)で、奥側(北側)の石垣と同じ高さであったと推定されます。
下の段は江戸時代後期に築かれたもので、崩落を防ぐ補強のための石垣として下段に石垣を継ぎ足した結果、現在の姿になりました。
東曲輪への櫓門跡: 東曲輪は、本丸の馬出(うまだし)・外枡形的機能を有する曲輪です。左手石垣上に構えられていた里櫓(さとやぐら)は城内最大の二重櫓でした。城から水晶山へ向かう道がこの櫓のすぐ東にあり、その方面の防御を一手に担っていました。
写真をクリックしてしばらく待つとCGが開始します。
東曲輪から本丸へ: 櫓門跡から右に折れ、右手の長局埋門(ながつぼねうずみもん)から本丸東側の帯曲輪(長局)に入ります。
長局埋門絵図(享保三年岩村城絵図)
長局埋門: 本丸は上下2段の曲輪からなっており、下段は長局(ながつぼね)と呼ばれています。下段から上段に入る門は3箇所ありましたが、防御は重要視されておらず、本丸御殿の格式を整えることを重視していたようです。
本丸絵図(享保三年岩村城絵図): 江戸後期、本丸内部には何ら施設は配されない空閑地で、詰城としての空間であったことがであったことが伺えます。
絵図をクリックしてしばらく待つとCGが開始します。
本丸棚門: 長局を通り棚門より本丸上段に入りました。
写真をクリックしてしばらく待つとCGが開始します。
本丸東口門: 本丸の正門の「東口門」(ひがしぐちもん)です。
埋門絵図(享保三年岩村城絵図): 絵図をクリックしてしばらく待つとCGが開始します。
埋門(うずみもん): 二の丸から本丸へ入る門で、本丸北口で裏門に当たります。埋門は一見すると平入り(ひらいり)の単純な門に見えますが、門を潜って左に曲がったところにもう一つ扉がある厳重な構えで、内部は地下通路のようになっていました。右写真の右(西)側には二重櫓が構えられていて、納戸櫓と呼ばれました。
写真の周辺の石垣は、面により石の積み上げられた時期が異なり、ここの1箇所で3時代の石積み技術の違いを確認することができます。
二の丸: 真ん中にぽっかり空いた穴には石垣によって築かれた弁天池があり、その中島には岩村藩駿河領広野に落ちた隕石が弁財天として祀られていました。
出丸絵図(享保三年岩村城絵図): 絵図をクリックしてしばらく待つとCGが開始します。
本丸西面の高石垣と出丸: 写真をクリックしてしばらく待つとCGが開始します。撮影している辺りには、二ノ丸の裏門である不明門 (あかずのもん)が建っていました。
本丸下段の土塀の中にはここからしか行くことができません。左手の高石垣の上には、手前から納戸櫓(なんどやぐら)、本丸西多門櫓、二重櫓(太鼓櫓)が建ち並んでいました。
また、出丸は城の南西の防御を担う重要な曲輪で、二重櫓2棟、多門櫓3棟で厳重に守られていました。
本丸西面の高石垣を背景として出丸での集合写真
南曲輪: 本丸の南側に位置します。
東曲輪東側石垣: 南曲輪から東曲輪の周囲を回って、六段壁へ向かいました。
東曲輪北側石垣・六段壁
城郭の縄張が非常に複雑でしたので、再度縄張図を示します。図はクリックすると拡大します。
この後、岩村城跡から下山し、岩村城下町を散策しました。城下町の岩村本通りは国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、町並みの家屋の見学で当時の面影に触れることが出来ました。
岩村城跡から岩村城下町を散策後、第2駐車場に集合して、バスに乗り帰宅となりました。
本日は、城郭の情報が多く、また、見た目も複雑な岩村城の城郭構造を楽しむことができました。バス旅行で参加人数も多く管理が難しい例会実施にご尽力いただきました38期OB会員の皆様に感謝いたします。
文責 岡島 敏広
次回は、2025年4月16日(水)に三雲城(湖南市)が計画されています。
ご参考までに正保元年(1644)の岩村城の絵図へのリンクを示します。享保3年絵図(1718)に比べ古い時代のものであることから、上記解説や享保3年絵図よりも城郭の構造はさらに簡単なようです。
美濃国岩村丹羽式部少輔居城絵図
また、併せて解説に用いた「城下町ホットいわむら」のCGへのリンクを示します。
CG